風の帰り道 ただいまを待つ日々
時間は静かに流れていきます。
いつも隣にあった温もりが、少しずつ遠くなる——
それでも、心の奥には消えない記憶が残っています。
この章では、年を重ねたハルが“待つこと”の意味と、
目には見えない“つながり”を感じながら過ごす日々を描きます。
離れていても、想いが風に乗って届く。
そんな優しい奇跡を信じながら。
春の風が庭を撫で、ハルの毛をそっと揺らした。
ミナが大学へ旅立ってから、季節はいくつも過ぎていった。
あの頃、賑やかだった家は今、少しだけ静かで、
朝の光がカーテンの隙間から差し込む音さえ、やさしく感じられる。
ミナの部屋には、まだ若い頃の香りが残っていた。
机の上の写真立てには、笑顔のミナとハル。
ハルは鼻を近づけ、かすかに残る香水の匂いを確かめた。
その香りの中に、懐かしい声が混ざっている気がした。
「ハル、ただいま」
思わず顔を上げても、そこには誰もいない。
風が窓の隙間を抜けていくだけ。
けれど、ハルは知っていた。
その風の中にある優しさこそ、ミナの心の形だと。
季節は夏へと移り、秋が来て、また冬が訪れた。
ハルの歩みは少しずつゆっくりになり、
耳も遠くなって、目もかすむようになってきた。
それでも、玄関の方を向く習慣だけは変わらなかった。
そこから吹き込む風が、いつも“帰る人の気配”を連れてくるからだ。
ある日、ハルは夢を見た。
若い頃の自分が、ミナと庭を駆け回っている。
ミナの笑い声が響き、花びらが舞っている。
その笑顔を追いかけるたび、胸の奥が温かくなった。
目を覚ますと、涙が一粒、頬を伝っていた。
「……もう一度、あの声が聞きたい」
そう願った日の夕方だった。
玄関のドアがゆっくりと開く音。
小さな「ただいま」が、空気を震わせた。
ハルの耳がぴくりと動き、立ち上がる。
そこに立っていたのは、少し大人になったミナ。
見慣れた笑顔の奥に、たくさんの時間を重ねた優しさがあった。
ハルはゆっくりと近づき、尻尾を振った。
身体は昔のようには動かないけれど、心は走っていた。
ミナがしゃがみ込み、両手でハルの顔を包み込む。
「ハル、元気にしてた?」
その声を聞いた瞬間、ハルの胸の奥で何かが満ちていった。
——あぁ、これが“永遠”なんだ。
時間が流れても、
身体が変わっても、
心はちゃんと繋がっている。
離れていた日々も、寂しさも、
すべてこの瞬間のためにあったのだと、ハルは感じていた。
夕陽が二人を包み、空が少しずつ夜に染まっていく。
ミナの膝の上で目を細めながら、ハルは静かに思った。
「永遠って、ずっと生きることじゃない。
ずっと想ってもらえることなんだ」
風が、家の中をやさしく通り抜けた。
その風の匂いの中に、ハルは確かに感じていた。
——家族のぬくもりと、命の続き。
時の流れとともに、命は少しずつ形を変えていきます。
けれど、愛の記憶は消えず、心の中で新しい姿となって生き続ける。
ハルが見つめた“永遠”とは、きっとそのことでした。
生きることも、別れも、すべては「つながり」の中にある。
次章では、ハルが“永遠のその先”に見つけた光を描いていきます。
それは、命が終わる瞬間ではなく——
愛が新しい形で生まれる、もう一つのはじまりです。
 




