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ワン・ライフ  作者: 戸川涼一朗


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4/6

見えない距離の中で

巣立ちのあとに残るのは、静けさと、ほんの少しの温もり。

ハルはその中で“待つ”という愛のかたちを見つけていきます。

今回は「離れてもつながる心」と「信じる強さ」をテーマに描きました。


春の朝。

玄関のドアが静かに閉まったあと、家の中から音が消えた。

外ではヒヨドリが鳴いているのに、その声さえ遠く感じる。


ミナは今日、大学へ行くため家を出た。

スーツケースの中には服や本と一緒に、家族への想いが詰まっている。

出発の直前、彼女はぼくの頭を撫でながら言った。


「ハル、ちゃんとごはん食べてね。

また帰ってくるから、それまで待ってて」


その声はいつもの笑顔のままだったけれど、

ほんの少しだけ震えていた。

ぼくは「わかったよ」と言うように尻尾を振った。

それが、笑顔で見送る最後の精一杯だった。


ドアの向こうから足音が遠ざかる。

やがて、車のエンジン音が響いて――それも消えた。

静まり返った家に、ぼくの鼓動だけが残る。


…こんな静けさ、初めてだった。


ミナの匂いが、まだあちこちに残っている。

ソファのクッション、ベッドの毛布、ぼくの首輪。

どこを嗅いでも、優しくて温かい香りがする。

まるで「ここにいるよ」と囁いているみたいで、

ぼくはその匂いに顔をうずめた。


けれど、夜になると不安が押し寄せる。

お父さんは黙ってテレビを見ている。

ごはんの箸を動かす音がやけに大きく響く。

ミナの笑い声も、足音も、もう聞こえない。

時間が止まったような夜だった。


ぼくは玄関の前に座り、

閉ざされたドアの向こうを見つめながら想う。


――あの子は、今どこにいるんだろう。

ちゃんと食べてるかな。

ひとりで泣いてないかな。


声にはならない問いを胸の中で繰り返しながら、

ぼくは静かにしっぽを揺らした。

“待つ”という言葉が、

こんなにも苦しくて、

こんなにも温かいものだなんて知らなかった。


数日後、お父さんがベランダに洗濯物を干していた。

その中に、ミナの白いシャツが一枚混じっていた。

風が吹くたびに、袖口のピンクの刺繍が揺れる。

ぼくはその下で座り、風の匂いを吸い込んだ。

懐かしいミナの香り。

胸の奥がぎゅっと締めつけられ、でも泣く代わりに尻尾を振った。

――ミナは、ちゃんとここにいる。


季節が変わり、夏がきた。

窓の外ではセミが鳴き、日差しが床に模様を作る。

少しずつ慣れてきたつもりでも、

夜になると玄関の前で目が覚めてしまう。

ドアの向こうに、あの足音が聞こえた気がして。


そして――ある日の夕暮れ。

カチャ、と鍵の音がした。


ぼくの体が勝手に動いた。

玄関へ走り出す。

ドアが開いて、あの声が聞こえた。


「ただいま、ハル!」


その瞬間、胸の奥が弾けた。

ぼくは全力でミナに飛びつき、何度も何度も顔を舐めた。

涙の味がした。

ミナも泣いていた。

「もう…ハル…会いたかった…!」

声が震えていた。

ぼくは尻尾を千切れるほど振りながら、

ただその手のぬくもりを感じていた。


ほんの少し背が伸びて、大人っぽくなったミナ。

でも、ぼくを抱く腕は、昔と何も変わっていなかった。


その夜、ミナは「久しぶりにここで寝ようかな」と笑って、

ぼくの毛布の隣に寝転がった。

ぼくはその隣に丸くなり、

彼女の心臓の音と、ゆっくりした呼吸を聞きながら目を閉じた。

夢の中で、子どもの頃のミナが笑っていた。

ぼくを抱きしめて、「大好きだよ」って。


朝、光が差し込む中で、ミナの目尻に小さな涙が光っていた。

それは、悲しみじゃない。

“つながっている”という確信の涙。


ミナが再び出かけるとき、ぼくはもう泣かない。

玄関の前で静かに座り、しっぽを振る。


――だって、もう知っている。


離れていても、心はそばにある。

待つことは、寂しさじゃなく、信じること。

それが、ぼくがミナから教わった愛の形。


今日も風が吹く。

どこかで、ミナの笑い声が混じっている気がした。

ぼくは目を閉じて、その音を追いかける。

きっとまた、会えるから。


「待つ」という行為は、時に苦しく、孤独です。

けれどハルは、その孤独の中で“信じる強さ”を覚えました。

見えない距離の中で確かに続いていく絆。

それは、言葉ではなく“心の温度”で感じるもの。


次章では、時間の流れとともに少しずつ変わっていく“命の形”を通して、

ハルが「永遠」という言葉の意味に近づいていきます。


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