巣立ち ―離れていてもそばにいる―
春。ミナは大学生になり、一人暮らしを始めます。
静かになった家で、ハルは“変わらないもの”と“変わっていくもの”の両方を見つめます。
離れても続くぬくもりを、ハルの目線で丁寧に描きました。
朝の光が、カーテンの隙間から細く伸びて、床の上でゆっくり形を変えていく。
ぼくはいつものように、ミナの部屋の前で前脚をそろえて座っていた。けれど、今日は違う。
ドアの向こうでは、段ボールの壁ができていて、机の上も棚の中も、見慣れた小物が消えている。
薄いテープの匂い、紙の擦れる音、慌ただしい靴音。春の朝は、にぎやかなのに少し寂しい。
「ハル、どいて〜。通れないよ」
ドアが少しだけ開いて、ミナの手が伸びてくる。
その手がぼくの頭を撫でる時、昔よりも指が長く、掌が温かく感じた。
小さかった頃のミナは、撫でるというより、押す、だったのになぁ……ぼくは鼻を鳴らして、少しだけ通り道をあける。
今日は、ミナが家を出る日。
春から大学生になって、一人暮らしを始めるのだ。
お父さんは車の鍵を握りしめて、落ち着きなく玄関とリビングを行ったり来たりしている。
「本当に大丈夫か? 困ったらすぐ帰ってこい。鍵は持ったな? 携帯は……充電は……」
同じことを三回も聞いて、最後は自分で照れて咳払いをした。
お母さんは、笑って「大丈夫よ」と言いながら、湯気の立つお茶をテーブルに置く。
その手つきはいつも通りだけど、指先にほんの少し力が入っているのを、ぼくは見逃さなかった。
「うん、大丈夫。大学も家から近いし、週末には帰るよ」
ミナは明るい声で言う。
でも、ぼくは知っている。明るい声の奥に、小さな波が立っていることを。
ぼくの鼻先に届くのは、シャンプーの匂いと、段ボールの紙の匂いと、ほんの少しの不安の匂い。
玄関の前で、ぼくは尻尾をいつもより強く振った。
「いってらっしゃい」って言いたくて。声にはならないから、代わりに尻尾に全部こめる。
ミナはしゃがみ込んで、ぼくの顔を両手で包む。
「ハル、ちゃんとお父さんとお母さん見ててね。ふたりとも、心配性だから」
ふにゃ、と笑った口元が、春の陽だまりみたいにやわらかい。
ドアが開いて、外の空気が流れ込む。
朝の冷たさと、日向の匂い。車のドアが閉まる音、エンジンのかかる振動。
白い車がゆっくり動き出し、角を曲がる。
ぼくは首を伸ばして、見えなくなるまで見送った。
見えなくなってからも、しばらく玄関のタイルの上に座っていた。
タイルは少し冷たくて、ぼくのお腹にその冷たさがじんわり移った。
静かになった家に、時計の針の音が戻ってくる。
――コツ、コツ、コツ。
いつも聞いていたはずの音なのに、今日はやけに大きく聞こえる。
洗濯機の回る音、湯沸かしのかすかなシューという音、お母さんのスリッパが床を擦る音。
どの音も、ミナの笑い声と重なっていた頃とは、少し違う。
午後、ぼくはミナの部屋に入って、ベッドの脇で丸くなった。
シーツに顔を押しあてると、知っている匂いがした。
甘くて、少し大人っぽくて、でもやっぱり“ミナ”の匂い。
ベッドの上には、使いかけのリボンと、写真立てがひとつ。
写真の中では、小学生のミナと、まだ若かったぼくが並んで笑っている。
あのときのぼくは、耳がぴんと立って、目がきらきらしていた。
写真の端が少し擦れていて、ミナが何度も触ったのだと分かる。
夜。
いつもなら「ただいまー!」とドアが開いて、台所に笑い声が弾む時間。
今日は、静かだ。
代わりに、テレビが控えめにしゃべっている。ニュースキャスターの声は、どこか遠くの町の話みたいだ。
お母さんは、ぼくの頭を撫でながら小さくつぶやく。
「静かになっちゃったね、ハル」
ぼくは喉の奥で小さく鳴いて、頬をお母さんの手にすり寄せる。
言葉はなくても、分かることがある。
寂しさは、分け合うほど軽くなる。
数日が過ぎると、家の空気は新しい形になっていく。
朝は少し早く静けさが訪れ、夜は少しだけ長い。
ぼくは庭に出て、風の匂いを嗅いだ。
花壇の土は湿っていて、芽吹いたばかりの緑の匂いがした。
ミナが植えた小さな苗が、頼りなくもまっすぐ空を見上げている。
「大きくなるんだよ」と、ぼくは心の中で話しかける。
その苗も、ミナも、同じ空の下にいる。
ある夕方、郵便屋さんが門のベルを鳴らした。
お母さんが受け取った封筒には、見覚えのある丸い字が並んでいる。
差出人のところに、ミナの名前。
お母さんはキッチンの椅子に腰かけて、封を切り、ゆっくりと読み上げた。
「大学、楽しいよ。音楽サークルに入った。
朝早いのは相変わらず苦手だけど(笑)、ちゃんと起きてる。
友達ができたよ。
ハル、元気かな。今度の休みに帰るね。」
「ハル、ミナがね、帰ってくるって」
お母さんがそう言うと、ぼくの尻尾は勝手にぶんぶん動いた。
床に当たって、トトトッと音がする。
お母さんは笑って、ぼくの背中を二度、やさしく叩いた。
手紙が届いてからの日々は、曇りの日でも明るかった。
ぼくは玄関のマットの上で昼寝をしながら、時々ドアの方へ顔を向ける。
風が吹くと、遠くの電車の音が聞こえる。
――帰ってくる音かもしれない。
そんなふうに考えるだけで、胸の奥が温かくなる。
その週末、玄関のドアが開く音がした。
匂いで分かった。
懐かしくて、安心して、ちょっと新しい匂い。
「ハルー!」
ぼくは立ち上がるより早く走りだしていた。
ミナが両手を広げ、しゃがみ込む。
ぼくはその胸に飛びこんで、鼻先を頬に押しつける。
ミナの笑い声が、ぼくの耳のすぐそばで弾けた。
「会いたかったよ」
「わたしもだよ、ハル。すっごく会いたかった」
短い言葉で、たくさん伝わる。
ミナの指が、ぼくの耳の付け根をくすぐる。
そこはぼくの弱いところで、思わず目を細めてしまう。
夜は、家族みんなでごはんを食べた。
テーブルの上には、お母さんの得意な煮物と、ミナの好きな卵焼き。
お父さんが「味はどうだ」と得意げに聞くと、ミナは「最高」と笑った。
ぼくはテーブルの下で、誰の足にもたれかかりながら、話の流れを耳で追いかける。
大学のこと、友達のこと、初めての自炊で焦がしたフライパンのこと――
家は、言葉でまた満たされていく。
片づけが終わって、廊下の灯りが一つずつ消えていく。
ミナは自分の部屋に入って、ベッドの上に腰を下ろす。
「ねぇ、ハル」
呼ばれて、ぼくはゆっくりと入っていく。
ミナは写真立てを手に取り、にっこり笑った。
「今度さ、私の部屋にも写真置く。ハルの写真」
その言葉が、胸の奥にふわりと降りてくる。
ぼくはベッドの脇で丸くなって、尻尾を一度だけ、ゆっくり振った。
「もし夢の中でも会えたら、ちゃんと撫でさせてね」
ミナがそう言って、部屋の灯りを消す。
窓の外では、春の風がカーテンをやさしく揺らしている。
リズムは子守唄みたいで、ぼくはまぶたを重くしながら、ミナの足元に額を寄せた。
暗闇は怖くない。
だって、温かいものがここにあるから。
翌朝、ミナはまた出発の支度をした。
玄関で靴ひもを結ぶ姿が、昨日より少しだけ、大人に見えた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
お父さんとお母さんの声が重なって、ぼくは尻尾を振る。
ミナは最後にぼくをぎゅっと抱きしめ、鼻先に軽くキスを落とした。
ドアが開き、光が差し込む。
外の空気は昨日より少しだけ暖かい。
車の音、足音、街の気配。
ドアが閉まると、また、静けさが戻る。
でも、昨日までとは違う静けさだ。
静けさの中に、手紙の約束と、写真立ての笑顔と、昨夜の温度が残っている。
ぼくは玄関のマットでひとつ伸びをして、顔を上げる。
「行ってらっしゃい」と「おかえり」は、いつでもここにある。
離れていても、ぼくらは同じ家族の時間を、生きている。
時計の針が進む。
――コツ、コツ、コツ。
その音は、昨日よりやさしく聞こえた。
ぼくはゆっくり目を閉じて、心の中でつぶやく。
「おやすみ、ミナ。またすぐ、会おうね」
胸の奥が静かに温まり、春の風が、家の隅々までやわらかく広がっていった。
“巣立ち”は別れじゃなくて、あらためて「つながり」を確かめる儀式。
ハルは匂い・音・温度の記憶で、家族のぬくもりをつなぎ続けます。
次章では、離れて過ごす季節の中で揺れる心――「待つことの強さ」をもう一歩深く描いていく予定です。
 




