表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワン・ライフ  作者: 戸川涼一朗


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

巣立ち ―離れていてもそばにいる―

春。ミナは大学生になり、一人暮らしを始めます。

静かになった家で、ハルは“変わらないもの”と“変わっていくもの”の両方を見つめます。

離れても続くぬくもりを、ハルの目線で丁寧に描きました。

朝の光が、カーテンの隙間から細く伸びて、床の上でゆっくり形を変えていく。

ぼくはいつものように、ミナの部屋の前で前脚をそろえて座っていた。けれど、今日は違う。

ドアの向こうでは、段ボールの壁ができていて、机の上も棚の中も、見慣れた小物が消えている。

薄いテープの匂い、紙の擦れる音、慌ただしい靴音。春の朝は、にぎやかなのに少し寂しい。


「ハル、どいて〜。通れないよ」

ドアが少しだけ開いて、ミナの手が伸びてくる。

その手がぼくの頭を撫でる時、昔よりも指が長く、掌が温かく感じた。

小さかった頃のミナは、撫でるというより、押す、だったのになぁ……ぼくは鼻を鳴らして、少しだけ通り道をあける。


今日は、ミナが家を出る日。

春から大学生になって、一人暮らしを始めるのだ。


お父さんは車の鍵を握りしめて、落ち着きなく玄関とリビングを行ったり来たりしている。

「本当に大丈夫か? 困ったらすぐ帰ってこい。鍵は持ったな? 携帯は……充電は……」

同じことを三回も聞いて、最後は自分で照れて咳払いをした。

お母さんは、笑って「大丈夫よ」と言いながら、湯気の立つお茶をテーブルに置く。

その手つきはいつも通りだけど、指先にほんの少し力が入っているのを、ぼくは見逃さなかった。


「うん、大丈夫。大学も家から近いし、週末には帰るよ」

ミナは明るい声で言う。

でも、ぼくは知っている。明るい声の奥に、小さな波が立っていることを。

ぼくの鼻先に届くのは、シャンプーの匂いと、段ボールの紙の匂いと、ほんの少しの不安の匂い。


玄関の前で、ぼくは尻尾をいつもより強く振った。

「いってらっしゃい」って言いたくて。声にはならないから、代わりに尻尾に全部こめる。

ミナはしゃがみ込んで、ぼくの顔を両手で包む。

「ハル、ちゃんとお父さんとお母さん見ててね。ふたりとも、心配性だから」

ふにゃ、と笑った口元が、春の陽だまりみたいにやわらかい。


ドアが開いて、外の空気が流れ込む。

朝の冷たさと、日向の匂い。車のドアが閉まる音、エンジンのかかる振動。

白い車がゆっくり動き出し、角を曲がる。

ぼくは首を伸ばして、見えなくなるまで見送った。

見えなくなってからも、しばらく玄関のタイルの上に座っていた。

タイルは少し冷たくて、ぼくのお腹にその冷たさがじんわり移った。


静かになった家に、時計の針の音が戻ってくる。

――コツ、コツ、コツ。

いつも聞いていたはずの音なのに、今日はやけに大きく聞こえる。

洗濯機の回る音、湯沸かしのかすかなシューという音、お母さんのスリッパが床を擦る音。

どの音も、ミナの笑い声と重なっていた頃とは、少し違う。


午後、ぼくはミナの部屋に入って、ベッドの脇で丸くなった。

シーツに顔を押しあてると、知っている匂いがした。

甘くて、少し大人っぽくて、でもやっぱり“ミナ”の匂い。

ベッドの上には、使いかけのリボンと、写真立てがひとつ。

写真の中では、小学生のミナと、まだ若かったぼくが並んで笑っている。

あのときのぼくは、耳がぴんと立って、目がきらきらしていた。

写真の端が少し擦れていて、ミナが何度も触ったのだと分かる。


夜。

いつもなら「ただいまー!」とドアが開いて、台所に笑い声が弾む時間。

今日は、静かだ。

代わりに、テレビが控えめにしゃべっている。ニュースキャスターの声は、どこか遠くの町の話みたいだ。

お母さんは、ぼくの頭を撫でながら小さくつぶやく。

「静かになっちゃったね、ハル」

ぼくは喉の奥で小さく鳴いて、頬をお母さんの手にすり寄せる。

言葉はなくても、分かることがある。

寂しさは、分け合うほど軽くなる。


数日が過ぎると、家の空気は新しい形になっていく。

朝は少し早く静けさが訪れ、夜は少しだけ長い。

ぼくは庭に出て、風の匂いを嗅いだ。

花壇の土は湿っていて、芽吹いたばかりの緑の匂いがした。

ミナが植えた小さな苗が、頼りなくもまっすぐ空を見上げている。

「大きくなるんだよ」と、ぼくは心の中で話しかける。

その苗も、ミナも、同じ空の下にいる。


ある夕方、郵便屋さんが門のベルを鳴らした。

お母さんが受け取った封筒には、見覚えのある丸い字が並んでいる。

差出人のところに、ミナの名前。

お母さんはキッチンの椅子に腰かけて、封を切り、ゆっくりと読み上げた。


「大学、楽しいよ。音楽サークルに入った。

朝早いのは相変わらず苦手だけど(笑)、ちゃんと起きてる。

友達ができたよ。

ハル、元気かな。今度の休みに帰るね。」


「ハル、ミナがね、帰ってくるって」

お母さんがそう言うと、ぼくの尻尾は勝手にぶんぶん動いた。

床に当たって、トトトッと音がする。

お母さんは笑って、ぼくの背中を二度、やさしく叩いた。


手紙が届いてからの日々は、曇りの日でも明るかった。

ぼくは玄関のマットの上で昼寝をしながら、時々ドアの方へ顔を向ける。

風が吹くと、遠くの電車の音が聞こえる。

――帰ってくる音かもしれない。

そんなふうに考えるだけで、胸の奥が温かくなる。


その週末、玄関のドアが開く音がした。

匂いで分かった。

懐かしくて、安心して、ちょっと新しい匂い。

「ハルー!」

ぼくは立ち上がるより早く走りだしていた。

ミナが両手を広げ、しゃがみ込む。

ぼくはその胸に飛びこんで、鼻先を頬に押しつける。

ミナの笑い声が、ぼくの耳のすぐそばで弾けた。


「会いたかったよ」

「わたしもだよ、ハル。すっごく会いたかった」

短い言葉で、たくさん伝わる。

ミナの指が、ぼくの耳の付け根をくすぐる。

そこはぼくの弱いところで、思わず目を細めてしまう。


夜は、家族みんなでごはんを食べた。

テーブルの上には、お母さんの得意な煮物と、ミナの好きな卵焼き。

お父さんが「味はどうだ」と得意げに聞くと、ミナは「最高」と笑った。

ぼくはテーブルの下で、誰の足にもたれかかりながら、話の流れを耳で追いかける。

大学のこと、友達のこと、初めての自炊で焦がしたフライパンのこと――

家は、言葉でまた満たされていく。


片づけが終わって、廊下の灯りが一つずつ消えていく。

ミナは自分の部屋に入って、ベッドの上に腰を下ろす。

「ねぇ、ハル」

呼ばれて、ぼくはゆっくりと入っていく。

ミナは写真立てを手に取り、にっこり笑った。

「今度さ、私の部屋にも写真置く。ハルの写真」

その言葉が、胸の奥にふわりと降りてくる。

ぼくはベッドの脇で丸くなって、尻尾を一度だけ、ゆっくり振った。


「もし夢の中でも会えたら、ちゃんと撫でさせてね」

ミナがそう言って、部屋の灯りを消す。

窓の外では、春の風がカーテンをやさしく揺らしている。

リズムは子守唄みたいで、ぼくはまぶたを重くしながら、ミナの足元に額を寄せた。

暗闇は怖くない。

だって、温かいものがここにあるから。


翌朝、ミナはまた出発の支度をした。

玄関で靴ひもを結ぶ姿が、昨日より少しだけ、大人に見えた。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

お父さんとお母さんの声が重なって、ぼくは尻尾を振る。

ミナは最後にぼくをぎゅっと抱きしめ、鼻先に軽くキスを落とした。

ドアが開き、光が差し込む。

外の空気は昨日より少しだけ暖かい。

車の音、足音、街の気配。

ドアが閉まると、また、静けさが戻る。


でも、昨日までとは違う静けさだ。

静けさの中に、手紙の約束と、写真立ての笑顔と、昨夜の温度が残っている。

ぼくは玄関のマットでひとつ伸びをして、顔を上げる。

「行ってらっしゃい」と「おかえり」は、いつでもここにある。

離れていても、ぼくらは同じ家族の時間を、生きている。


時計の針が進む。

――コツ、コツ、コツ。

その音は、昨日よりやさしく聞こえた。

ぼくはゆっくり目を閉じて、心の中でつぶやく。

「おやすみ、ミナ。またすぐ、会おうね」

胸の奥が静かに温まり、春の風が、家の隅々までやわらかく広がっていった。

“巣立ち”は別れじゃなくて、あらためて「つながり」を確かめる儀式。

ハルは匂い・音・温度の記憶で、家族のぬくもりをつなぎ続けます。

次章では、離れて過ごす季節の中で揺れる心――「待つことの強さ」をもう一歩深く描いていく予定です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ