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第八章 静かな分岐点


 出張が終わってから、もう三週間が経った。

 それでも、僕の頭の中ではあの灯籠の光景がまだ揺れている。

 夕暮れの海、風に流れる線香花火の匂い、

 そして川瀬の笑顔——あの瞬間が、ふとした拍子に脳裏を掠める。


 出張明けの月曜日、いつもより少し早く出社した。

 社内の空気は湿っていて、冷房の風がわずかに湿気を含んでいる。

 席に着くと、パソコンのモニターに自分の顔が映った。

 少しやつれたように見えたが、それでも口元には微かな笑みがあった。


 あの夜以来、川瀬との距離は以前よりも自然なものに感じられた。

 特別に意識するでもなく、ただ隣にいて会話ができる。

 それだけで十分だった。


 「おはようございます」

 川瀬の声。

 顔を上げると、彼女がいつものように資料を抱えて立っていた。


「おはよう。出張の疲れ、取れました?」

「まだ少し残ってますけど、楽しかったですよ。あの町、良かったですよね」

「うん、海がきれいだった」

 その言葉に、川瀬は少しだけ目を細めた。


 ほんの一瞬だった。

 でも、その短い瞬間が、やけに鮮明に記憶に残った。


 昼休み。

 社食のカレーを食べながら、加賀が笑いながら言った。

「お前ら、出張の間ずっと一緒だったって聞いたぞ。何か進展でもあったのか?」

「そんなことないですよ」

「嘘つけ。沢口なんか“お似合いだって思います”とか言ってたぞ」


 冗談混じりの声。

 でも、内心、悪い気はしなかった。


 からかわれることにすら、

 少しだけ嬉しさを覚えている自分がいた。


 午後の会議室。

 資料の説明を終えたあと、沢口が小声で話しかけてきた。


「高瀬さん、出張お疲れさまでした。川瀬さんと本当に息ぴったりでしたね」

「え? そんなことないですよ」

「いえいえ、外から見てて分かりましたもん。

 なんか、あの人……高瀬さんの前だと安心してる感じでした」

「そう、ですかね」

「はい。……あ、でも、その分、私もちゃんと頼ってくださいね。

 仕事のことで困ったら、遠慮なく」


 そう言って笑った沢口の目は、どこか艶を帯びていた。

 けれどそのときの僕は、それを“気遣い”の一種だとしか思わなかった。


 その日を境に、沢口との距離が少しずつ変わっていった。

 仕事の相談、業務後の打ち合わせ、軽い雑談。

 どれも自然な流れのはずだった。


 けれど——いつのまにか、その頻度は週に数回に増えていた。


 ある日の昼、沢口が言った。

「高瀬さん、このあと少しだけ資料見てもらえませんか? 会議室、空いてるので」

「いいですよ」

「助かります。……最近、ちょっと焦っちゃって。

 みんな優秀だから、置いてかれそうで」


 その言葉に、思わず「そんなことないですよ」と返していた。

 自分でも驚くほど、声がやわらかかった。


 会議室に入ると、沢口がパソコンを開いた。

 資料を見ながら話しているうちに、彼女の指先がほんの一瞬、僕の手に触れた。


 偶然だったのかもしれない。

 けれど、そのとき、彼女は小さく笑って「すみません」と言った。

 なぜか心臓の鼓動が速くなった。


 その夜、帰りの電車の窓に映る自分の顔は、どこか浮ついて見えた。 


 翌週、社内で小規模な人事異動の通知が出た。

 川瀬と加賀が、二か月間「ネクサリンク更新案件」に参加することになったという。

 同じ会社内の別部署で、古いシステムの移行を担当するプロジェクトだった。


 「二か月だけの応援って聞きました」

 川瀬がそう言ったとき、

 僕は思わず「そうか」と短く返すことしかできなかった。


 彼女はあっけらかんとしていた。

 「久しぶりに別の環境で勉強できるの、ちょっと楽しみです」

 そう言って笑った。


 その笑顔を見て、

 “これくらいの距離なら大丈夫だ”と思い込もうとした。


 けれど、二週間も経たないうちに、

 社内の風景から川瀬の姿が消えていく感覚に気づいた。


 昼休み、彼女がいない。

 会議の資料に彼女の名前がない。

 何気ない報告メールも来ない。


 そうなると、妙なほど時間がゆっくり流れた。


 あの頃の“日常”が、どれほど自分を支えていたのかを、

 その時になってようやく知った。


 代わりに、沢口と話す時間が増えた。

 彼女はいつもタイミングよく声をかけてきた。


「高瀬さん、川瀬さん、最近忙しそうですね」

「みたいだね。ネクサリンクは結構ハードらしい」

「でも、加賀さんが一緒なら安心ですよね」

「そうだな」

「……うらやましいな。私も外の案件行きたかった」


 その言葉に、どんな意味が含まれていたのか、

 その時の僕にはまだ分からなかった。


 金曜の夜。

 残業を終えて帰ろうとしたとき、

 ふとスマートフォンが震えた。


 画面には「沢口真帆」の名前。

 ——『ちょっと相談いいですか? 仕事のことで』


 断る理由はなかった。

 返信を打ち、近くのカフェで待ち合わせる。


 淡い照明の下、

 沢口は紙コップを両手で包みながら言った。


「最近、なんだか高瀬さんが遠くに感じて……いえ、変な意味じゃなくて」

「遠く?」

「はい。なんか、川瀬さんがいるときと、いないときで、表情が違うというか」


 不意を突かれたように息が詰まった。

「そんなこと、ないと思うけど」

「……だったらいいんですけど」


 彼女は少し俯いて、ストローの先をいじった。

 それ以上、言葉は出なかった。


 カフェを出ると、雨が降っていた。

 街灯の光が滲み、濡れたアスファルトが反射していた。


 その光景が、ふと“濁った湖面”を思い出させた。 


 七月の終わり、社内に大きな発表があった。

 岡島が主導する新規大型プロジェクト——「クロスアーク統合計画」の始動である。


 社内システムの根幹を再設計し、全部署のデータ基盤を統合する。

 社長直轄の長期計画であり、

 人事的にも、選ばれたメンバーは将来の昇進候補とみなされる。


 プロジェクトメンバーの一覧が社内ポータルに掲載された。

 そこには、「川瀬美咲」の名前があった。


 思わず画面を二度見した。


 ——川瀬が、岡島の下につく。


 ほんの数週間前まで同じ部署で並んでいた彼女が、

 今や別のフロアの人間になろうとしていた。


 オフィスの廊下で岡島にすれ違ったとき、

 彼は静かに声をかけてきた。


「高瀬くん、川瀬さんのこと、よく指導してくれたね」

「いえ、自分はたいしたことしてません」

「いや、あの人材は君が育てたようなものだ。

 クロスアークでも期待してるよ」


 その言葉は褒め言葉のはずだった。

 けれど、どこかに薄い棘があった。


 “彼女はもう、君の手を離れた”——

 そんな含みを感じ取ってしまった。


 その日の夜、デスクで一人残業していると、

 チャットの通知が鳴った。


 ——『川瀬さんがオンラインになりました』

 ——『沢口真帆がオンラインになりました』


 パキモンの通知。

 懐かしい響きに、胸の奥が少し痛んだ。


 ログインすると、川瀬から短いメッセージが届いた。

 ——『お久しぶりです。ネクサリンク、ようやく終わりそうです』

 ——『お疲れさまです。そっちはどうですか?』

 ——『大変ですけど、勉強になります』


 淡々とした文面。

 以前のような柔らかさは少なかった。


 それでも、やり取りができるだけで安心した。


 その翌週。

 沢口がふいに言った。

「そういえば、高瀬さん。川瀬さん、岡島部長のプロジェクト入るらしいですよ」

「知ってます。すごいことですよね」

「ですね。でも……ちょっと寂しくないですか?」

「え?」

「だって、ずっと一緒だったじゃないですか。

 今度から、私が代わりに頼られちゃうかもですよ?」


 冗談交じりの言葉。

 でも、その“冗談”の中に、

 どこか意図的な色が混じっている気がした。


 その夜、布団に入っても眠れなかった。

 まぶたの裏に、二つの笑顔が交互に浮かんだ。


 ——川瀬の、柔らかな微笑み。

 ——沢口の、少し掴みきれない笑み。


 どちらも現実で、どちらもほんの少しだけ違っていた。


 八月の初め、湿度の高い朝。

 社内の冷房が効きすぎていて、エアコンの風が肌に刺さるように冷たかった。


 そんな中、僕のもとに一本のメールが届いた。

 件名は「資料レビューのお願い」。

 送信者は——沢口。


 内容は仕事の依頼に見せかけた雑談に近かった。

 添付されたファイルは、半分以上が既に完成しているもの。

 「これなら自分で直せるはず」と思いながらも、返信を書いた。


 ——『今夜見ます。明日の午前中には返します』

 ——『ありがとうございます! ほんと助かります☺️』


 すぐに絵文字付きの返事が返ってきた。

 ディスプレイの光の中で、その一文が妙に鮮やかに浮かんだ。


 夜、帰り際にデスクを片付けていると、

 加賀が向かいの席から声をかけてきた。


「なあ高瀬、最近、沢口と仲良いな」

「仕事の相談が多いんですよ」

「そうか。まあ、若い子に頼られるのは悪くないよな」


 加賀はそう言いながら、

 コーヒーを一口飲み、何かを考えるように天井を見上げた。


「そういやさ、川瀬、元気にしてるらしいぞ」

「聞きました。ネクサリンクもそろそろ終わるって」

「なんかあいつ、岡島の新しいプロジェクトにも呼ばれてるらしい」

「“クロスアーク統合計画”ですよね」

「ああ。……出世コースだな」


 加賀はそれだけ言って、意味ありげに笑った。

 その笑みが何を意味するのか、その時は読み取れなかった。


 週末。

 昼過ぎに会社の近くでランチを取っていると、

 偶然、沢口からメッセージが届いた。


 ——『今、近くにいません? 見かけた気がして』

 ——『ああ、駅前のカフェにいます』

 ——『やっぱり! よかったら少しだけお話ししません?』


 断る理由がなかった。

 結局、同じテーブルで昼食を取ることになった。


 沢口は軽い話題を器用に操る人だった。

 食べながらも仕事やゲーム、映画の話を自然につなげていく。

 そして、ふとした瞬間に核心を突く。


「川瀬さん、すごいですよね。どんどん上に行って」

「うん。実力があるから」

「……でも、高瀬さんの方が“支えてきた”じゃないですか。

 なんか、そういうのって報われないなって思っちゃいます」


 何気ない言葉のはずなのに、

 胸の奥で何かが沈んだ。


 “報われない”——その言葉は、

 この数年で何度も聞いたような気がした。


 一方その頃。

 加賀は別の場所で、川瀬と打ち合わせをしていた。


「ネクサリンクの引き継ぎ資料、もうすぐ完成ですね」

「はい。長かったですけど、やっと終わります」

「お疲れさん。……そういや、高瀬のやつ、最近よく沢口と一緒にいるみたいだな」

「え?」

「打ち合わせとか、カフェとか。

 仕事の話してるらしいけど、まあ仲良さそうだったぞ」


 加賀の声は軽かった。

 だが、その軽さの裏に何かを忍ばせるのが上手い男だった。


「そうなんですか。……いいことじゃないですか」

「まあな。けど、あいつ、無自覚だからな。

 勘違いさせると面倒なことになるかもな」


 川瀬は小さく笑って、「そうですね」とだけ言った。

 ただ、その指先は少しだけ強く資料を掴んでいた。


 その夜、川瀬は自宅でモニターを開いた。

 パキモンの起動画面が光り、

 “フレンドリスト”の上部に「高瀬慎一」「沢口真帆」の名前が並んでいた。


 少しの間、何も操作せずに眺めていた。

 画面の端で、小さなキャラクターが眠るアニメーションを繰り返している。


 ——『川瀬美咲がログインしました』

 ——『沢口真帆がオンラインになりました』


 次の瞬間、川瀬は静かにログアウトした。


 二か月が過ぎた。

 長かったネクサリンク更新案件がようやく終わり、

 川瀬と加賀が元の部署に戻ってきた。


 久しぶりに見る川瀬は、

 どこか雰囲気が変わっていた。


 髪を少し切り、

 表情が落ち着いたように見えた。

 “成長”という言葉より、“距離”という印象が近かった。


「おかえりなさい」

 そう声をかけると、川瀬は笑った。

「ただいまです。やっと戻ってこれました」

「大変だったでしょ」

「はい。でも、充実してました」


 その返事に、かすかに温度差を感じた。

 僕の“寂しかった”という気持ちは、

 もう彼女の中では過去形になっているように思えた。


 昼休み。

 久しぶりに一緒に食事を取った。

 周囲の社員たちが「おかえり!」と声をかける中、

 彼女は明るく応じていた。


「やっぱりこの部署、落ち着きます」

「そうだね。いろいろ変わってないし」

「でも……少しだけ違う気がします」

「違う?」

「うん。自分の中の“見え方”が。

 前よりも、少し俯瞰で見られるようになった気がして」


 その言葉に、笑ってうなずいた。

 でも、本当は少しだけ胸が痛んだ。


 午後、川瀬が席を外している間に、

 加賀が僕の席に来て書類を渡した。


「久々に戻ってきたけど、あいつ変わったよな」

「そうですか?」

「うん。なんか、しっかりしたっていうか……大人になった感じ」

「いいことじゃないですか」

「まあな。——あ、そうだ。沢口が呼んでたぞ」


「沢口が?」

「ああ、“相談がある”って」


 翌日、沢口からメッセージが届いた。

 ——『明日、少し時間ありますか? 相談したいことがあって』

 ——『いいですよ。昼に空けときます』


 短いやり取り。

 そのあと、何もなかったように仕事に戻った。


 だがその夜、

 なぜか心が落ち着かなかった。


 自分の中で、

 “川瀬との関係がもう動かない”という確信が、

 ゆっくりと形になり始めていた。


 そして代わりに、

 沢口の存在が静かに輪郭を濃くしていく。


 翌日の昼。

 会議室で向かい合うと、

 沢口はいつになく真剣な表情だった。


「最近、川瀬さん、変わりましたよね」

「うん。そう思う」

「なんか、ちょっと距離を取ってる感じがして。

 ……高瀬さんのこと、避けてるようにも見えます」

「……そう、かな」

「私は、もったいないと思いますよ」


 その言葉の意味を問い返す前に、

 彼女は笑って立ち上がった。


「ごめんなさい、ちょっと言いすぎました。

 でも、ほんとにそう思ってます」


 会議室を出たあと、

 心の中で何かがずっとざわめいていた。


 “もったいない”という言葉が、

 なぜか耳の奥に残った。


 その日の夜、川瀬から久しぶりにチャットが届いた。

 ——『今日、岡島部長から次のフェーズの話がありました』

 ——『クロスアーク、本格的に動きそうです』

 ——『そうなんだ。頑張って』

 ——『ありがとうございます』


 そのあとに続く言葉はなかった。

 短いやり取り。

 けれど、僕はその一行を何度も読み返した。


 夜の帰り道、

 街灯が濡れた歩道を照らし、

 足元に映る影が二重に重なっていた。


 片方は自分の影、もう片方は見えない誰かの影。


 その“もう一つ”が、

 誰のものなのかを考えるのが怖くなった。


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