第7章 起承転結ー承-2
六月の終わり、雨が上がった翌週の月曜日。
社内では人事プロジェクトの派遣メンバーが正式に決まり、
僕と川瀬、加賀、沢口の四人が地方支社への出張を命じられた。
期間は月曜から金曜までの五日間。
新システム導入の研修と、運用サポートの立ち上げが目的だった。
出張先は海沿いの中都市で、梅雨明け前の湿った空気が漂っていた。
新幹線の車内。
窓の外を、曇りがかった空と濡れた田園が流れていく。
加賀は早速ノートPCを開いて仕事の資料を広げ、
沢口はスマートフォンでスケジュールを確認していた。
一方で、川瀬は静かに文庫本を読んでいた。
装丁は水色で、表紙には小さな花の絵が描かれていた。
その横顔が、車窓に映って柔らかく歪んでいる。
「何読んでるんですか?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
「これですか? “霧の庭”っていう小説です。短編集なんですけど、少し不思議な話で」
「霧の庭……タイトル、いいですね」
「ええ。境界の曖昧さとか、夢と現実の交わるところとか……そんなテーマみたいです」
そう言って笑うその表情に、どこか懐かしさが滲んでいた。
“霧”という言葉が出るたびに、
僕の心の奥の何かが、静かに震えた。
宿泊先のビジネスホテルに着いたのは夕方だった。
駅前から少し離れた海沿いの通りで、
潮の香りが微かに漂っていた。
チェックインを済ませ、荷物を置いたあと、
全員で近くの居酒屋に入った。
地方特有の甘い醤油の香りが店内を満たしていた。
「なんか修学旅行みたいですね」
沢口が笑うと、加賀が「お前はいつも楽しそうだな」と返した。
川瀬もそのやりとりを見て微笑み、
僕もつられて小さく笑った。
笑い声が重なり合う。
不思議と、久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
翌日からの研修は想像以上にハードだった。
朝九時から始まり、日が暮れるまでシステムの設定とテストが続いた。
僕と川瀬は主に技術サポートを担当し、
加賀と沢口はマネジメント面で動くことになった。
昼休み、社員食堂の窓際で海を眺めながら、川瀬がぽつりと言った。
「こうして出張って、学生時代の合宿みたいですね」
「確かに。慣れない土地ってだけで、ちょっと特別な感じがしますね」
「……非日常、ってやつですか」
そう言って笑う彼女の声が、
海風の音に混じって遠くへ溶けていった。
木曜日の夜。
出張も終盤に差し掛かり、仕事の区切りもついていた。
ホテルのロビーで資料を整理していると、
沢口が声をかけてきた。
「高瀬さん、明日で終わりですね」
「そうだね。無事に終わりそうで何よりだ」
「ねえ、聞きました? 明後日この街でお祭りがあるんですよ。
“灯籠の海渡り”っていう伝統行事で、海に灯籠を流すんですって」
「へえ……そんなのがあるんだ」
「川瀬さん、見たいって言ってましたよ。せっかくだから、行きません?」
「……いいですね。全員で行きましょうか」
「はい、じゃあ決まり!」
沢口は嬉しそうに頷いた。
けれどその目の奥には、ほんのわずかに影があった。
それをこのときの僕は、単なる疲れだと思っていた。
金曜日の仕事は穏やかに終わった。
プロジェクト責任者への報告も滞りなく済み、
現地スタッフたちと軽い打ち上げをして、四人はホテルへ戻った。
夜風が生ぬるく、波の音が街の隙間をすり抜けていく。
明日は休みだという開放感が、どこか懐かしい空気を運んでいた。
そして、土曜日。
昼過ぎから祭りの準備が始まり、
通りには屋台が並び、人の波ができていた。
空は群青と橙が混ざり合う夕暮れで、
遠くの海面が金色に光っていた。
「こっちですよ!」
沢口が声を上げ、人混みの中を抜けていく。
加賀が後ろから笑いながらついていき、
僕と川瀬は自然と少し後ろに残った。
「にぎやかですね」
「そうですね。……こういうの、久しぶりです」
「僕もです。こうして歩くの、なんだか不思議ですね」
「仕事じゃない時間って、贅沢に感じます」
彼女がそう言ったとき、
風が強く吹いて、彼女の髪が頬にかかった。
無意識に手を伸ばしかけて、
すぐに引っ込めた。
「……すみません」
「いいえ」
短いやりとり。けれど、その瞬間、
彼女が少しだけこちらを見上げて微笑んだ。
屋台の灯りが、その笑みを淡く照らした。
花火が一つ、空に上がる。
音が遅れて響く。
海岸沿いに出ると、無数の灯籠が海へと流されていた。
波に揺れながら、光の粒が遠くへ漂っていく。
風の匂いに、潮と線香花火の香りが混ざっていた。
「きれいですね」
「ええ……」
彼女の声が、海の音に溶けていく。
どの灯籠がどの光か、もう区別がつかないほど、
海は静かで、やさしかった。
ふと、川瀬が小さく呟いた。
「願い事って、叶うと思いますか?」
「どうでしょう。……でも、願うこと自体は、きっと悪くないですよ」
「そうですね。叶うかどうかより、願う瞬間が好きです」
彼女がそう言ったとき、
波の向こうでひときわ大きな花火が咲いた。
光が一瞬、彼女の瞳を照らす。
その輝きの中で、僕は思った。
——この時間が、ずっと続けばいい。
そんな願いが、
誰にも聞かれないまま、
胸の奥でそっと灯り続けていた。




