第7章 起承転結ー承
六月。
梅雨が本格的に始まり、朝の通勤電車の窓は白く曇っていた。
外の景色は灰色に滲み、街路樹の葉が雨粒を跳ね返している。
季節のせいなのか、それとも何か別の理由なのか、
最近、胸の奥に薄い膜のような違和感が張りついていた。
川瀬とは、変わらず穏やかな関係だった。
出勤すればいつものように挨拶を交わし、
昼休みには軽く世間話をして、時折パキモンの話題で笑い合う。
表面上は何も変わっていない。
けれど、笑いの奥にほんのわずかな“間”が生まれるようになった気がした。
彼女が何かを考えているような、
もしくは僕がそれを過剰に感じ取っているだけなのか。
理由は分からなかった。
昼休み、オフィスの隅でコーヒーを飲んでいると、
加賀と沢口の笑い声が聞こえた。
「でもさ、川瀬さんってほんと几帳面だよな。報告書、あの人に任せたら完璧」
「ですよね。あの人、ちょっと前に高瀬さんのこと“頼りになる”って言ってましたよ」
「はは、あの二人ならうまくいくんじゃね?」
軽い冗談のような声。
けれど、それが耳の奥に小さく刺さる。
僕が視線を上げると、沢口と目が合った。
彼女は一瞬だけ微笑んで、それから何事もなかったように話を続けた。
まるで、“こちらを見ていたことを隠すため”のように。
その日の午後、川瀬と隣り合って資料を修正していたとき、
彼女がふと話しかけてきた。
「そういえば、沢口さんとよく話してますね」
「うん、資料のやり取りが多いから」
「……仲、いいですよね」
その声は何気ないように聞こえた。
けれど、一瞬だけ、視線が泳いだのを僕は見た。
「まあ、同じチームですし」
「そうですよね」
それ以上の会話は続かなかった。
彼女はすぐに画面へと視線を戻し、キーボードの音だけが残った。
静かな時間が過ぎていく。
それなのに、空気の密度だけが少しずつ増していくようだった。
その日の退勤間際、沢口が帰り支度をしながら声をかけてきた。
「高瀬さん、ちょっとだけいいですか?」
「うん、どうしたの」
「いや、川瀬さんが今日“ちょっと元気なかった”みたいで。何かあったのかなって」
「え? そんなこと、ないと思うけど」
「そうですよね。……あ、でも本人は“疲れてただけ”って言ってました。
だから、気にしないでくださいね。あの人、責任感強いから」
「……そうなんだ」
沢口の声は、どこか柔らかすぎた。
まるで、慎重に言葉を選びながら、何かを探るように。
その夜、家に帰ってからも、その会話が頭から離れなかった。
“気にしないでくださいね”という言葉が、逆に“気にしろ”と囁いているように思えた。
数日後の昼休み。
加賀が僕のデスクへ来て、書類を渡しながら言った。
「なあ高瀬、人事の岡島部長、最近よくこのフロア来るよな」
「確かに、よく見かける」
「なんか動きがあるっぽいぜ。人事プロジェクト、二期目に入るんだと」
「ふーん」
「それで、俺にも少し話が来てさ。
“今後のチーム運営の参考にしたい”とか言われたけど、どうも違う気がすんだよな」
「違うって?」
「いや……俺の勘だけどな」
加賀はそこで言葉を切り、少し口元を歪めた。
“勘”という言葉の裏に、何かを隠しているようだった。
その週の金曜。
加賀は午後から外出扱いになっていた。
用件は「外部打ち合わせ」とだけスケジュールに記されていたが、
彼が帰ってきたのは夜八時を過ぎてからだった。
いつもなら冗談を飛ばして帰る彼が、その日は無言でデスクに戻り、
数枚の書類をまとめて鞄に突っ込むと、すぐにオフィスを出ていった。
残業していた僕の視界の隅に、その背中が静かに消えた。
——翌日、加賀は岡島と喫茶店にいた。
昼下がり、窓際の席。
雨上がりの光が、コーヒーの表面に淡く映っている。
岡島はスーツの袖を整えながら、声を低く落とした。
「加賀くん、例の件、進めてくれているかな」
「……はい。順調に」
「そう。悪いようにはしない。君には今後、チームを任せられる人間になってほしいと思っている」
岡島は静かにコーヒーを啜った。
加賀は視線を落とし、カップの縁を指でなぞった。
「ありがとうございます。ただ、ひとつだけ……」
「うん?」
「彼——高瀬の存在、どうします?」
「彼のことは、自然に。わざわざ外す必要はない。
ただ、流れが向かうべき方向に“手を添える”だけでいい」
その言葉は、まるで水面に石を投げるように、静かに響いた。
「……わかりました」
「そうだね、君の“勘のよさ”には期待している」
加賀の口元が小さく動く。
それは笑いなのか、ため息なのか、どちらとも取れなかった。
その夜、加賀は沢口にメッセージを送った。
——『今度、出張メンバーの調整、君に任せる。川瀬さんも同行な』
——『了解です。どうしたんですか、急に?』
——『ちょっといろいろ。高瀬とも上手く調整しといてくれ』
——『はあい。何かあったら報告しますね』
沢口はスマートフォンを机に置き、静かにため息をついた。
カーテンの隙間から覗く街の明かりが、
机に置かれたガラスのペン立てを鈍く光らせている。
彼女の表情には、わずかに迷いの色があった。
けれど、その迷いを見た者はいなかった。
一方その頃。
慎一はオフィスに残り、遅くまで作業を続けていた。
外は雨。窓ガラスを伝う水滴が、街灯の明かりを滲ませている。
時計の針は午後十時を過ぎていた。
疲労のせいか、集中力はもう残っていない。
ふと顔を上げると、フロアの奥から人の気配がした。
エレベーターホールの方に、スーツ姿の男が立っている。
岡島だった。
「まだ残っていたのか、高瀬くん」
「はい、ちょっと片付けを」
「そうか。……川瀬さん、最近頑張ってるね」
「ええ。吸収が早いですし」
「うん。素直な人だ。ああいう人材は、丁寧に扱わないといけない」
岡島の声は穏やかだった。
けれど、言葉の一つひとつに、妙な圧があった。
“丁寧に扱う”——その響きが、
どこかで“掌の上に乗せる”という意味に変換されていくようだった。
「君も、彼女のこと、よく見ておいてくれ」
「……はい」
「頼んだよ」
そう言って岡島はエレベーターに乗り、
ゆっくりと扉の向こうに消えた。
その直後、蛍光灯の一つが小さく明滅した。
不意に、胸の奥に冷たい波が立った。
夜の帰り道。
アスファルトに反射する街灯の光が、濁った湖面のように揺れていた。
傘を差す手に、雨粒が絶えず跳ね返る。
ふと、あの夢の光景が脳裏に浮かんだ。
——濁った水面、霧、そして立ち尽くす影。
誰かがこちらを見ている。
その“誰か”の輪郭が、少しずつ現実の誰かに重なり始めている気がした。




