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第6章 歪んだ確信

週明けの朝、エレベーターの前に見慣れない背広姿が立っていた。

 人事の岡島部長——噂に聞いていた三十代半ばの出世頭。

 彼は通りすがりの総務の女性に穏やかに会釈し、短く言葉を交わしていた。声は低く、抑えられている。

 エレベーターの扉が開くと、彼は周囲を急かすような素振りもなく、一歩だけ下がって「どうぞ」と手を上げた。

 その仕草に、余裕があった。余裕と、自信。

 そして、見えないところで物事を決めていく人間の空気。


 フロアに上がると、朝礼で課長が言った。

「人事主導で新しい制度統合プロジェクトが立ち上がる。必要に応じて各チームから支援を出すことになるかもしれない。調整窓口は岡島部長だ」

 ざわめきはなかった。

 みんなは「また何か始まるのか」という顔をして、それぞれの席へ戻っていった。


 午前、コードレビューを終えて席に戻ると、加賀がコーヒー片手に腰を下ろした。

「なあ高瀬、最近どう?」

「どうって?」

「いやさ、仕事。川瀬さん、もう慣れてきたろ。教育係としては肩の荷が下りる感じ?」

「まあ、順調だと思うよ。吸収が早いから」

「だよな、あの子は素直に伸びるタイプだわ」


 加賀は紙コップの縁を指で軽く叩いた。

「さ、昼どうする? 外、行く?」

「今日は弁当」

「そっか。じゃ、ちょっとだけ教えて。あの子、データ周りの設計どれくらいまで任せてる?」

「まだ軽い部分。いきなり深いところは——」

「だよね。……ま、俺もさ、今度の人事プロジェクトの話、様子見たいわけよ。誰がどこまで動けるか、ね」

 彼は冗談めかして肩をすくめた。

 その軽さは、いつも通りだった。

 けれど“人事プロジェクト”という単語が、どこかで別の意味を持って響いた。


 昼。休憩スペースでは沢口が新しい社食メニューの写真を撮っていた。

「インスタに載せるんですか」

「載せないですよ。社内チャットに『今日の勝ちメニュー』って投げようかなって」

 彼女は笑い、少し間を置いて付け加えた。

「そうだ、高瀬さん、チャットID、教えてもらってもいいですか? 資料お願いするときに、メールだとタイムラグ出るから」

「いいですよ」

 互いにIDを交換する。

 その操作は、仕事の効率化以上の意味は持たない——はずだった。

 

 席に戻ると、すぐに通知が来た。

 ——『先ほどはありがとうございます! 資料の件、またお願いするかもです』

 ——『了解です』

 少しして、またメッセージが届いた。

 ——『あ、そういえば川瀬さんから聞いたんですけど、高瀬さんってパキモンやってるんですね!』

 ——『ああ、少しだけ。川瀬さんに誘われて』

 ——『いいですね〜! 私も最近ハマってるんですよ。イベント中ですよね?』

 ——『霧の森のやつですね。ちょっと触ってます』

 ——『じゃあ、今夜みんなで一緒に回ってみません? 川瀬さんもきっと来ると思うし!』

 ——『そうですか……じゃあ、少しだけ』

 

 ほんの軽い流れで決まった。

 けれど、画面を閉じたあと、なぜか胸の奥がざわついた。

 仕事以外の接点が、また一つ増えた。

 それが良いことなのか悪いことなのか、まだ判断がつかなかった。


 午後、レビューの合間に、川瀬が席の横に立った。

「昨日のイベント、ミストリー、無事に捕まえられました」

「よかったですね」

「でも、性格値が微妙で。逃げ腰で……」

「それらしいですね」

 彼女は笑った。僕もつられて少しだけ笑った。

 たわいない会話だった。そこで終わり、彼女は自席に戻る。

 その一連が、静かで、良かった。


 夕方、給湯室で紙コップにお湯を注いでいると、エレベーターのほうから声がした。

「……じゃ、加賀くん、その件は君の裁量で。もちろん、僕のほうでも筋は通す」

 低い声。岡島だった。

「恐縮です。いや、はい。ええ、もちろん」

 加賀の声が少しだけ上擦って聞こえた。

 扉が閉まる金属音。

 会話の内容は分からない。ただ、事実としてそこに二人がいた。

 お湯が規定量を超えて溢れ、手に熱さが刺さった。慌てて蛇口をひねる。


 その夜。

 帰宅してPCを立ち上げると、パキモンの起動画面に薄い霧がかかっていた。

 特別イベント——「霧の森・後編」。

 ログインすると、画面右上に小さな通知が灯る。

 ——『川瀬美咲がオンラインになりました』

 ——『沢口真帆がオンラインになりました』


 チャット欄に一言、川瀬から。

 ——『少しだけ回ります?』

 ——『はい。30分くらいなら』

 その横で沢口からもメッセージが飛ぶ。

 ——『今日のボス、弱点水ですよ!』

 ——『助かる』


 三人で短い周回をこなす。

 画面の中では、霧の粒子が舞い、ミストリーの羽が微かに光った。

 テキストのやり取りは短く、事務的で、居心地がいい。

 終わると、同じように短い挨拶が続く。

 ——『おつかれさまでした!』

 ——『また明日』

 ——『おつです〜』


 それだけのこと。

 でも、日常に薄い層が一枚重なった気がした。

 静かで、目立たない層。けれど、それがあるのとないのとで、世界の見え方が少し変わる。


 翌日。

 午前中の会議のあと、加賀が肩で笑いながら耳打ちした。

「なあ、川瀬さん、この前さ、俺に聞いてたよ。『高瀬さんって普段どんな人なんですか』って」

「……そう」

 口の中に、少し金属の味が広がった。

「悪いようには言ってないから安心して。まじめで真っ直ぐな人、ってさ」

「別に、何も心配してないけど」

「冗談冗談。……いやでも、最近よく名前出るよ。高瀬の」


 “よく名前が出る”。

 加賀の言葉は軽かった。

けれど、その軽さは、どこか細工めいてもいた。

 僕の中で、ある種の計算式が勝手に動き始める。

 偶然が重なると、人は意味を求める。

 意味を求めると、答えに近い形を仮に置く。

 仮置きが重なると、それは“確信に似たもの”に変わっていく。


 ——歪んだ確信。


 


 昼すぎ、チャットに沢口から個別でメッセージが来た。

 ——『川瀬さん、午後ちょっとバタバタらしくて。あ、例の資料、私からもフォロー入れておきますね』

 ——『ありがとう。助かる』

 ——『いえいえ。高瀬さん、こういうのサッと手を貸してくれるから、みんな頼りにしてますよ』

 ——『そうかな』

 ——『はい。……あ、でも無理はしないでくださいね』

 文末の一文が、少しだけ温度を帯びていた。

 画面を閉じる。深呼吸。息は浅いままだ。


 夕刻、コピー機の前で川瀬に会う。

「さっきはすみません、依頼立て込みで」

「問題ないです。沢口さんからも連絡あったから」

「そうでしたか。……あの人、すごいですね。気が利く」

「そうだね」

 他意のない会話。

 それで充分だった。

 充分なはずだった。


 日が暮れ、廊下の照明が一点ずつ灯る。

 エレベーターホールの前で足を止めると、少し先に岡島が立っていた。

 電話を耳に当て、低い声で誰かと話している。

「——うん、そう。素直で吸収が早い。ああ、彼女の性格なら、配置は慎重に。守るべき点は守る」

 こちらに気づくと、彼は電話を切ってから軽く会釈をした。

 その笑みは、曇りのない、役職者の笑み。

 扉が開く。彼は一歩下がって譲る。

「どうぞ」

「いえ、次で」

「そうですか」

 扉が閉まる直前、彼の目がすっと細くなったのを見た気がした。

 見間違いかもしれない。

 でも、その刹那に、胸の奥で冷たいものが小さく鳴った。


 帰宅。

 シャワーの湯気が鏡を曇らせる。指で拭っても、またすぐに白くなる。

 霧。

 窓の外は晴れているのに、部屋の中だけが霞んで見えた。


 ベッドに入る前、スマートフォンが震える。

 占いアプリの通知。

 ——『人づての言葉は、霧を濃くも薄くもする。選ぶのは、あなた』

「……都合がいい」

 そう呟いて、通知を消す。

 けれど、消えたのは画面の文字だけで、胸の中のざわめきは消えない。


 布団に潜り、目を閉じる。

 濁った湖面に、細い波紋が広がる。

 向こう岸に、誰かが立っている。

 霧の密度は昨日より濃い。

 風はないのに、髪だけが揺れて見えた。

 言葉は届かない。

 ただ、向こう側の誰かが、こちらの口の形を読もうとしているのが分かった。


 ——何を、信じればいい?


 声にしたつもりはなかった。

 それでも、湖は薄く震え、波紋はすぐに消えた。

 目を開けると、天井の影が四角く伸びている。

 眠りは遠く、朝は近い。


 翌朝の通勤電車、ドアの窓に映る自分の顔は、昨日より少しだけ色が薄く見えた。

 脳裏のどこかで繰り返しが始まる。

 加賀の「よく名前出るよ」という軽い声。

 沢口の「無理しないでくださいね」の柔らかい文字。

 岡島の「守るべき点は守る」という低い抑え。

 それらがぐるぐると回り、やがて一つの“形”をとってしまう。


 ——きっと、うまくいく。


 そう思った瞬間、自分の中の別の声が、はっきりと否定した。

 ——それは、誰の言葉だ。

 ——どこから来た“確信”だ。


 電車が大きく揺れ、吊り革が震えた。

 目を閉じる。

 白い霧が額の内側にふくらみ、ゆっくりと広がっていく。


 そして、その霧の縁をなぞるように、

 歪んだ確信だけが、静かに形を保っていた。


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