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第2章 夢の中の彼女

https://youtu.be/AbFsPmt0HnI

youtubeでずんだもんボイスにて同じものを投稿していますので

音声でききたいというかたはそちらもどうぞ!

初日の朝に感じた違和感は、昼を過ぎても消えなかった。

 ミーティングでの自己紹介を終え、席に戻る途中、彼女——川瀬美咲が僕の横を通り過ぎたとき、

 ふと、同じ香りがした。あの夢の湖のほとりで、霧に混じって漂っていた匂い。

 湿った土と水、そして微かな花の香り。


 あり得ない、と思った。

 夢の中の匂いなんて、覚えているはずがない。

 たまたま似た香水をつけているだけだ。いやそもそも、そんなことがあるわけがない。

 これは錯覚、思い込みなんだ——そう自分に言い聞かせた。

 けれど、胸の奥で何かがざわついていた。


 


 午後、課長に呼ばれ、川瀬の研修を任された。

 内容は社内システムの操作説明と、基本的なコードレビュー。

 彼女はノートPCを開き、真剣な目で画面を追っている。


「ここがAPI連携の設定部分です。慣れるまで少し面倒ですけど……」

「はい、大丈夫です。こういう構成、前職でも少し触ったことがあるので」


 彼女の声は穏やかで、よく通る。

 どんなに複雑なことを話しても、返事には曖昧さがない。

 まるで、“分からない”という言葉を知らない人のようだった。


「……すごいですね。飲み込みが早い」

「そうですか? でも、高瀬さんの説明が分かりやすいんですよ」


 名前を呼ばれて、息が詰まった。

 それだけのことなのに、どこか不思議な既視感があった。

 夢の中で、彼女が僕の名前を呼んだような気がする。

 だが、そんなはずはない。あれは夢だ。ただの夢だ。


 


 午前中の業務はまったく手になじむことはなかった。

 そもそも手につくはずもなく、そんな中でさえも、事態は急に動き出すことになる。


 昼休み、彼女に誘われて社内食堂で昼食をとることになる。

 その時のことは詳細に思い出せない。あっけにとられたまま、

 その時が訪れるのだった。


 


 ざわめく空間の中で、彼女はまっすぐに外を見て言った。


「今日、空が霞んでますね」

「そうですね。天気、崩れるかも」

「……霧、出るかもしれませんね」


 箸を持つ手が止まった。

 “霧”という単語が、胸の奥を冷たく撫でていった。

 けれど、すぐに笑って取り繕う。


「霧ですか。そういえば、最近見てないな」

「そうなんです。昔はよく出てたのに、最近は減りましたね。

 でも、霧って少し好きなんです。輪郭が曖昧になる感じが落ち着くというか」


「……そうですか。僕は、あまり好きじゃないですね」

「どうしてですか?」

「ぼやけると、自分がどこにいるのか分からなくなりそうで」


 彼女は少しだけ目を細めて笑った。

 その笑みには、理解と共感のようなものが一瞬だけ浮かび、すぐに霧のように消えた。


 


 午後の業務中、何度か彼女と目が合った。

 そのたびに、彼女は軽く微笑んだ。

 社交辞令の笑みなのだろう。それ以上でも、それ以下でもない。

 そう分かっているのに、胸の鼓動が速くなるのを止められなかった。


 


 定時を過ぎ、彼女が帰り支度をする。

「今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」

「ええ、お疲れさま」


 その声が少し耳に残った。

 声の高さ、語尾の柔らかさ——どこか、夢の中で聞いた響きと似ていた。

 まただ、と心の中で呟く。

 似ているだけだ。人間の記憶なんて曖昧なものだ。

 そう言い聞かせながら、彼女の背中がエレベーターの向こうに消えるのを見送った。


 


 帰りの電車。

 吊り革につかまりながら、反射する窓の中に彼女の横顔が一瞬浮かんだ。

 慌てて振り返る。もちろん、そこには誰もいない。

 ただ、窓ガラスに自分の疲れた顔が映っているだけだった。


「……気のせいだ」


 口の中で小さく呟いた。

 そう言えば言うほど、胸の奥で“確信に似た違和感”が育っていく気がした。


 


 夜、布団に入っても眠れない。

 頭のどこかで、彼女の声が反響していた。

 はっきりとは思い出せない。けれど、あの湖のほとりで交わした会話が、

 確かに“現実の彼女の口調”と重なっているように思えた。


 思い違いだ。

 そう結論づけるたびに、眠気は遠のいていった。


 


 翌朝。

 スマートフォンの震える音で目が覚めた。

 画面には、昨日と同じ占いアプリの通知が浮かんでいる。


 ——『濁った湖に現れる人は、あなたの“過去”を映す鏡です』


 「過去、ね……」


 ため息が漏れた。

 昨日までなら気にも留めなかっただろう。

 だが今は、その一文が妙に引っかかって離れなかった。

 理屈では占いなんて信じていないのに、心の奥のどこかが、

 それを“否定しきれない”でいた。


 窓の外は曇り。

 街の奥に、うっすらと白い霧が漂っている。

 まるで、夢の中から現実へと滲み出してきたようだった。


 


 ——気のせいだ。

 そう思いながら、僕はネクタイを締めた。


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