エピローグ:濁りの向こう
夏に入る手前の休日、僕は電車を二度乗り継ぎ、あの湖の最寄り駅で降りた。
夢に出てくる場所と同じ風景かどうか、正確には分からない。
けれど、長い間、まぶたの裏に滲んでいた地形は、ここに来ればほどけるような気がした。
湖畔の遊歩道には、アジサイが静かに色を増していた。
空は薄い雲を重ねていて、風はほとんどない。
水面は相変わらず濁っている。
底は見えないが、波紋はやさしい。
“濁り”が“荒れ”と同じではないことを、目の前の水が教えてくれる。
欄干にもたれていると、釣り道具を抱えた老人が隣に立った。
糸を垂らしながら、こちらを見ずに言う。
「澄みすぎた水にゃ、魚はおらんよ」
確かどこかで聞いた言葉。
僕はうなずく。老人もそれ以上は話さない。
湖は、ただ湖の音だけを続けている。
ポケットの中で、セキュリティカードの角が指に触れた。
先日、割れていた端を新しいケースに替えたばかりだ。
透明なプラスチック越しの“高瀬慎一”という印字は、
見慣れていて、少しだけ新しい。
名前は、そのまま前に進むための最小単位。
肩書きでも、成果でもなく、今日もゲートを通すための音になる。
ベンチに腰を下ろすと、少年が二人、通り過ぎていった。
手にぶらさげているのは、パキモンの新しいぬいぐるみ。
羽が半透明で、光を受けると淡く光る。
「ほら、ミストリーだ」「逃げ腰タイプなんだぜ」
おどけた声が、すぐに遠ざかっていった。
彼らは、ゲームの中で霧に慣れて、
現実の霧を怖がらないのかもしれない。
それは少し、羨ましかった。
スマートフォンが震えた。
画面には、例の占いアプリの通知。
——『濁った湖は、過去の写し鏡。
けれど鏡に映るのは“景色”ではなく“姿勢”です。』
いつかのように鼻で笑うことは、もうしなかった。
文章は、正しいかどうかより、いまの自分に届くかどうかで選別される。
今日は、届く側にいた。
水面を見ているうちに、とても古い夢の断片が立ち上がった。
霧の縁、向こう岸の影。
口の形だけがこちらに向いて動く、あの光景。
あれが誰であったかは、もうどうでもよかった。
あれはいつも、僕自身が選んだ「相手の輪郭」だったのだろう。
そこから目を逸らさないための、あるいは逸らすための。
どちらにしても、僕の影が混ざっていた。
木立の奥から、微かな土の匂いがした。
風がひとしきり葉を震わせ、湖面にだけ皺を置いていく。
濁りはそのまま、皺だけが広がり、やがて消えた。
ベンチから立ち上がる。
行きと同じ道を戻る気にはならず、
湖を半周して、小さな神社の脇道へ出ることにした。
鳥居の前に、見慣れない木札が立っていた。
「願い事は、一つずつ。叶わぬ時は、心の置き場を変えること」
書いた人の素性も、根拠も分からない。
けれど、妙に現実的な注意書きに、思わず笑ってしまった。
階段を下りる途中、ふと振り返る。
湖は、まだ濁っている。
けれどさっきよりも少し、光を拾っているようにも見えた。
視界が慣れたせいか、雲が切れたせいか、
それとも、単に僕が歩き出したからか。
理由は、どれでもよかった。
駅までの道で、新しいストラップを買った。
透明で、余計な色がない。
帰りの電車でセキュリティカードに通し、
指で軽く弾くと、薄い音が鳴った。
この一年で、最も頼りない音。
けれど、明日も同じ高さで鳴る音。
翌朝。
始業前のオフィスは、まだ空気が柔らかい。
ゲートの前で足を止め、カードをかざす。
電子音が鳴り、扉がひらく。
通り抜ける瞬間、背中に冷房の風が当たった。
振り返ると、ガラス越しに街路樹が揺れている。
風の強さは、昨日と変わらない。
席に着き、モニターを立ち上げる。
今日のタスクが並ぶ。締切の列は、昨日よりわずかに長い。
キーボードに指を置く。
ふと、画面の隅に溜まっていた古いメモを開く。
——“いつか”という言葉に期限を。
笑って、閉じた。
“いつか”に期限が要るときもあるし、
“いつか”のまま置いておくべきものもある。
それを仕分ける仕事は、誰の代わりにもできない。
最初のメールを送り、一本目のコードをコミットする。
小さなビルドが走り、問題なく通る。
成功音は鳴らない。
ただ、ログの行が一段増え、
少しだけ世界が更新される。
昼、窓の外に雲の切れ間ができた。
光が斜めに差し込み、キーボードの縁に薄い影を作る。
午後一番の会議の前に、立ち上がって水を飲む。
紙コップを握る指に、以前より力が入っていないことに気づく。
力が抜けたのではなく、
握りしめる対象を間違えなくなったのだと思う。
定時を少し過ぎて、会社を出る。
夕焼けは出ていない。
街の明かりがひとつずつ灯り、
路面に薄い水の膜が残っている。
遠くで、誰かが笑っている。
近くで、誰かが息を吐く。
どれも、今日にしかない音だ。
駅へ向かう途中、ふと立ち止まる。
ポケットの中のスマートフォンが、短く震えた。
画面には、占いアプリのほんの一行。
——『霧の出ない夜も、夢は続きます』
それを閉じる。
胸の中で、返事をする。
“続けるのは、夢じゃない。歩くことだ”。
改札を抜けると、風が一度強くなった。
前髪が少し乱れ、目元にかかる。
手の甲で払って、ホームに降りる。
停まっていた電車のドアが開き、
同じ高さの段差を、何も考えずにまたぐ。
濁った湖は、今日も濁ったままだろう。
それでも、その縁を歩ける人間は、
少なくともひとりいる。
名前を呼ばれなくても、
運命を見間違えても、
努力が報われなくても。
ゲートは、きちんと開く。
電車が走り出す。
窓に映る自分の輪郭は、少しだけ薄い。
けれど、その輪郭の外側に、
揺れながらも離れない線が一本、確かに続いていた。




