第九章 真相はより残酷に鮮明に
桜が散りきる少し前、風の温度だけが冬の名残を引きずっていた。
会社の前の通りは、朝になると花びらが薄く積もって、歩道の端に寄せられていく。
それを見て季節の終わりを知るほどに、僕は静かな日々に沈んでいた。
あの夜から一年。
川瀬の名前は、僕の耳にほとんど上らなくなっていた。
クロスアークに彼女が就いたことは知っていたが、
進捗も、成果も、誰かが話題にしても僕は頷くだけだった。
沢口とも加賀とも、業務に必要な連絡以外は交わさない。
チャットの窓が開いても、文面は短く、絵文字の明るさも切り捨てた。
朝は始業に合わせて起き、夜はタスクの終わりに合わせて帰る。
昼は社食で温かいものを口に入れ、口の中をやけどしないようにだけ気をつける。
そういう日が、積み木のように整って積み上がっていく。
そこに感情はあまり混ざっていなかった。
ある日の午後、給湯室の隣で小さな声がした。
「——加賀さん、部長に上がったらしいよ」
紙コップに注いだお湯が指先へと熱を押し上げていく。
僕は反射的に手を引き、カップの縁を持ち直した。
「この春から。人事の発令、見た?」
「見た見た。早いよなぁ。まだ三十代だろ。実績……あったっけ」
「岡島さんの後任だって。あのライン、強いよ」
廊下の先で笑い声が消えた。
カップの底でティーバッグが沈み、褐色が広がる。
“強いライン”。その言葉だけが舌の上で苦く残った。
同じ日の夕方、別の噂が社内チャットに流れた。
岡島が結婚するらしい——という話。
相手は誰か、どこの部署か、どこの会社か。
会話は憶測でほどけ、すぐまた固まる。
誰かが冗談を言って、別の誰かが笑った。
僕は笑わなかった。
けれど、不思議と、胸がざわついたわけでもない。
湖の水面のように、ただ波紋が一度広がって消えただけだった。
帰り道、歩道の端に叩きつけられた花びらが、靴底に貼り付いた。
剥がそうとしても剥がれない。
家に着く頃には乾いていて、無かったことのように道に落ちていった。
数日後、ロビーで書類の受け渡しを待っていると、
背後から控え目な声がした。
「……高瀬さん」
振り向くと、沢口がいた。
以前より痩せた気がした。顔色は悪くないが、目の下の影が深い。
薄いベージュのコートの袖口を指がきゅっと掴み、
離すか離さないか迷っている。
「今、時間……あります?」
「今は、少し」
「よかった。すぐでいいんです。……話があって」
ロビーを出て、会社の向かいの喫茶店に入った。
午後の遅い時間で、席には空きが多い。
窓際に座ると、ガラス越しに曇った空と、歩道を流れる人影が見えた。
「何にしますか」と店員が聞く。
沢口は「ホットで」とだけ言い、指先を膝の上で重ねた。
カップが運ばれてくるまでの間、彼女は何度か口を開きかけてやめた。
蒸気が上がり、カップの縁に小さな輪がつく。
「……お祝いの飲み会、行かないんですね」
唐突に、彼女が言った。
「お祝い?」
「加賀さん。部長就任の。今夜、有志でやるらしくて。
声がけ、届いてる人と届いてない人がいるみたいだけど」
「そうなんだ。知らなかった」
「行かないんですか」
「行かないよ」
沢口は頷いた。頷き、カップに触れ、また離した。
カップの縁に触れたとき、指先が僅かに震えているのが見えた。
「……あのね」
声がすべった。
喉の奥で何かを押し下げる音が、耳にはっきりと届いた。
「私、話さなきゃいけないことがあるんです。
ずっと、言わないでいたこと。言わないままなら、
多分、私、もう前に進めないから」
目の前の景色がすこし白む。
店内のBGMの音が遠のいた。
沢口は、真正面から僕を見た。
「——私、高瀬さんに近づいたのは、最初、仕事のためでした」
言葉は落ち着いていた。
淡々としているのに、温度だけは高い。
「加賀さんから“頼まれていた”んです。
あなたに相談して、距離を縮めて、
あなたが“誰かと親しい”ように見せること。
見せる、って言ったら語弊があるけど……でも、そういうことです」
「……」
「見返りは、私の人事評価と、次のプロジェクトの席。
『頑張れば昇格の可能性もある』って。
私は、それを信じました。
信じたかったから。誰かの役に立つ私、
必要とされる私になりたかったから」
噛み締められた歯の音が、言葉の間に混ざる。
彼女はカップを持ち上げ、口元に運んだが、結局飲まなかった。
「でも……途中から、違ってきたんです」
「違う?」
「“任務”をこなしているつもりだったのに、
あなたに『ありがとう』って言われた夜、
その二文字が、胸の奥で大きくなっていって。
相談を聞いてくれるときのあなたの目が、
ちゃんと私を見ていると思ってしまって。
それが嬉しくて、怖くて。
私……気づいたら、本当に、あなたに見てほしくなっていた」
呼吸が乱れる。
僕は言葉を探したが、どの言葉も正確ではない気がして、口を閉ざした。
「だから、告白の夜——」
その瞬間、店内の音が完全に消えたように感じた。
彼女は視線を伏せ、絞り出すように続けた。
「あなたが川瀬さんに告白して、あの人が『時間がほしい』って言った夜。
私、二次会の帰り道、少し離れて、後ろから見てました」
脳のどこかが、ぎゅっと縮んだ。
あの夜の雨、街灯の輪、交差点の赤、微かな靴音。
記憶の中の映像に、第三の視線が突然現れた。
「見てしまったんです。
違うって分かってるのに、見に行ってしまった。
そして、聞こえてしまった。——『好きだ』って。
“ああ、私は最初から見られていなかったんだ”って、
そこでやっと、ちゃんと、分かった」
彼女は息をついた。
笑うような、泣くような、曖昧なかたちで口元が歪む。
「だから、憎かった。
あなたが、じゃない。
あなたが見続ける、その視線の先が。
私に向かない現実が。
そして……私を、道具にした加賀さん達のやり方でさえ、
その時は“まっすぐ”に見えた。
だって、私は、どんな形でもいいから、
あなたの視界の中に居たかったから」
「沢口——」
名前を呼ぶ以外の言葉が出てこなかった。
彼女は僕の声に一瞬だけ目を伏せ、すぐに続けた。
「私は、悪いことをしました。
あなたの周りに噂が立つように、
わざと二人だけの打ち合わせを増やして、
社内チャットに『ありがとう』って大きめに書いて。
“見える”形だけを増やしていった。
最初は、ただの役割だった。
でも、途中から、私の願いになっていた」
「……どうして今、言うんだ」
自分の声が聞き慣れない温度で震えていた。
怒りでもない、悲しみでもない、名前のない揺れ。
「加賀さんが部長になったから。
岡島さんが結婚するから。
この一年、私も、あなたも、前に進んでいるようで、
何一つ整理できていないから。
このままだと、私、ずっと“報われない努力”に縛られる。
——それが一番、悔しいから」
“報われない努力”。
その言葉が、僕の内部のどこか、乾いた場所に落ちて音を立てた。
「あなたに許してほしいとは、言いません。
でも、知っていてほしい。
私はあなたを利用したし、あなたに惹かれた。
両方、本当なんです」
沢口はやっとホットコーヒーを一口飲んだ。
カップが皿に触れて、小さく音を立てる。
その音のほうが、彼女の嗚咽よりも泣き声に近かった。
「……ありがとう」
僕はようやく言った。
ありがとう、以外の言葉が、どれも形にならなかった。
責めたいのでも、赦したいのでもない。
ただ、事実を受け取るための言葉。
沢口は小さく頷いた。
頷き、唇を噛み、呼吸を一度整えた。
「最後に、もうひとつだけ。
——私、あの夜、あなたが『待つよ』って言ったとき、
なぜか、少しだけ救われました。
私の一年の中で、あの言葉は、唯一まっすぐだった。
だから私も今日、まっすぐに言います。
ごめんなさい。ありがとう」
店を出ると、空は淡い白で、細かい光が浮いていた。
彼女は信号の手前で「じゃあ」と言い、
僕はうなずいた。
彼女の背中が人波に紛れる。
もう追いかけない。
それが正しい、と思った。
告白の数日後、社内一斉メールが届いた。
差出人は人事。
件名は「人事異動および人事本部長代理就任のお知らせ」。
添付のPDFを開くと、簡潔な表が並んでいた。
見慣れた名前が、役職とともに並ぶ。
そして、文末に一行。
——人事本部 本部長代理 岡島 雅也
——併記 結婚のご報告(相手:社内関係者)
添付の二枚目に、簡素な報告文と、新婦の名前があった。
黒い文字で、静かに。
“川瀬 美咲”。
モニターの光が、目の奥へゆっくりと染み込んでいく。
驚きはなかった。
予感という言葉が、当てにならない未来の輪郭を正確に縁取る瞬間がある。
この一年、僕が何度も見てきた霧の形が、
いま、初めてひとつの像になっただけだった。
席を立ち、給湯室へ向かった。
紙コップにお湯を入れて、
流し台の前に立ちながら、湯気を見た。
湯気は真っすぐ昇らず、空調の風に流され、いくつものカーブを描いて消える。
ふと、昔の夢を思い出した。
濁った湖。霧。向こう岸の影。
あの影は彼女だったのか、それとも僕自身だったのか。
「おめでとうございます、だね」
背後で声がした。
振り向くと、加賀が立っていた。
ちょうど良いタイミングで、ちょうど良い表情。
「岡島さん、やっぱり持ってるよな。
……で、川瀬さん。出世街道、確定か」
「そうだな」
僕は紙コップを見た。
湯気はもうほとんど出ていなかった。
「高瀬」
呼び止められた。
加賀は少しだけ顔を近づけ、その声を柔らかくした。
「お前は、お前で、ちゃんと前に進めよ」
言い終えると、彼は何事もなかったように背を向けた。
その背中は、軽く見えた。
軽さの意味は、もう問うまいと思った。
退勤後、川沿いの道を歩いた。
水はいつも通り流れ、
水面には花びらが少しだけ残っていた。
街灯が写り、風で波が立ち、
像はすぐに崩れ、また映る。
濁りはあるのに、汚れているとは限らない。
濁っているからこそ、映りすぎないものがある。
家に帰ると、部屋の隅に置いた段ボールが目に入った。
出張で使ったままのバッグ。
電源コードの絡まった延長タップ。
整理の途中で止まっているものばかりだ。
僕は段ボールをひとつ開け、
中身を床に並べた。
捨てるものと、残すもの。
使うものと、使わないもの。
分類は意外なほどに簡単だった。
夜更け、スマートフォンが震えた。
表示された通知を、僕は短く笑ってしまった。
——『夢占い:濁った湖は、整理されない心の写し鏡』
親指で通知を消す。
画面はすぐに暗くなる。
暗闇の中で、呼吸だけが確かだった。
目を閉じると、あの湖がまた現れた。
霧は薄く、風は穏やかだった。
向こう岸には誰も立っていない。
水面は、濁ってはいるが、底の砂利の形がところどころ見えた。
僕は岸辺にしゃがみ、
手のひらで水をすくった。
冷たさが掌に染みて、やがて消えた。
向こう岸に誰もいないなら、
こちら側で、立ち上がればいい。
目を開ける。
窓の外が少し明るんでいた。
新しい朝の気配は、いつも通りに淡々としていて、
それが救いだった。
翌日、出社して席に着くと、
モニターの下に入れていたセキュリティカードの端がわずかに欠けているのに気づいた。
“高瀬慎一”の名前。
この一年で一度も変わらなかった文字。
僕はカードを指先でまっすぐになぞり、
いつも通り、ゲートにかざした。
電子音が鳴り、扉が開く。
風が少し、冷たかった。
淡々と、キーボードに指を落とす。
画面の中で、今日のタスクが整列する。
そこに、努力が報われる保証はどこにもない。
けれど、努力しない理由もどこにもなかった。
霧は晴れないかもしれない。
湖は濁ったままかもしれない。
それでも、人は岸を歩く。
それだけは、確かだった。




