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第八章-2 歪んだ信号

九月。

 オフィスの窓から見える空が、少しだけ低く感じられるようになった。

 夏の熱気が遠ざかり、風が乾いた匂いを運んでくる。

 季節が変わるように、社内の空気もまた少しずつ変わっていた。


 川瀬は完全に「クロスアーク統合計画」専任チームへ移り、

 僕の部署とは別のフロアで働いている。

 昼休みに顔を合わせることも、ほとんどなくなった。

 業務上のチャットでのやり取りは、

 必要最低限——まるで形式的な通信のようだった。


 ——『この仕様、確認お願いします』

 ——『了解です。データ差分は明日までに共有します』

 ——『助かります』


 それだけ。

 丁寧だが、感情の揺らぎはどこにもなかった。

 以前のように、ちょっとした冗談を交わすこともない。

 モニターの文字だけが、冷たく残る。


 不思議と、怒りはなかった。

 ただ、どこかで“戻れない”という予感が形を取り始めていた。


 そんな中で、別の話題が社内に広がり始めていた。


 「高瀬さん、沢口さんと最近よく話してるらしいね」

 「仕事以外でも、よく一緒にいるって」


 そんな言葉を、廊下の隅で耳にした。

 誰が言い始めたのかは分からない。

 でも、その噂が一気に広まるスピードだけは異常だった。


 たしかに、沢口と話す機会は増えていた。

 相談を受け、資料を手伝い、ちょっとしたコーヒーブレイクを共にする。

 どれも断る理由が見つからなかった。

 “職場の同僚”として、自然な距離のつもりだった。


 けれど——“噂”は、事実よりも先に心を侵す。


 川瀬のいるフロアに用事で立ち寄ったとき、

 ふと彼女とすれ違った。


「お疲れさまです」

「あ、……お疲れさま」


 その瞬間、いつもなら浮かぶはずの微笑みがなかった。

 彼女の瞳はどこか遠くを見ていた。


 ——ああ、噂、聞いたんだな。

 そう悟った。

 でも、弁解する言葉が見つからなかった。


 その頃、加賀は社外の喫茶店にいた。

 向かいの席には岡島が座っている。

 テーブルの上には、書類が二枚。


「加賀くん、君の部署での働き、評価してるよ」

「ありがとうございます」

「クロスアーク、順調に進んでいるけど、

 まだ人の整理が必要なんだ。特に、コミュニケーション面でね」


 岡島はコーヒーを口に含み、静かに続けた。


「高瀬くんは優秀だが、少し“浮いてる”。

 川瀬さんを中心にチームが固まるには、

 彼が距離を取る方が自然だと思わないか?」


「……なるほど」


「誤解を恐れずに言えば、

 彼が“孤立”してくれれば、いろいろうまく回る。

 もちろん、これは君にとっても悪い話じゃない」


 加賀は表情を変えずに聞いていた。

 ただ、指先でカップを軽く回す。

 その仕草の中に、何かの決意が混じっていた。


「……分かりました。俺なりに動いてみます」

「期待しているよ」


 数日後。

 加賀は沢口を呼び出した。

 部署の給湯室、誰もいない時間帯を狙って。


「なあ、沢口。お前、最近高瀬と仲いいよな」

「え? まあ、相談とかで……」

「悪いことじゃない。ただ、少し気をつけたほうがいいかもな」

「どういうことですか?」

「川瀬、あいつお前のこと気にしてるみたいでさ。

 “二人ってどういう関係なんですか?”って俺に聞いてきた」


 嘘だった。

 でも、沢口の瞳が一瞬だけ揺れたのを加賀は見逃さなかった。


「……そうなんですか」

「お前も、無理に避けなくていいけどさ。

 あいつ(高瀬)が困らない程度に、な」


 加賀はそう言い残して出ていった。

 沢口は残されたカップを見つめながら、

 なぜか胸の奥に熱がこもるのを感じていた。


 その夜、沢口は自分の部屋でスマートフォンを握りしめていた。

 チャットアプリの画面には、慎一とのトーク履歴。

 何度も開いては閉じ、また開く。


 ——『明日、打ち合わせの資料見てほしいです』

 ——『いいよ。午後なら空いてる』

 ——『ありがとうございます! ほんと助かります』


 何気ないやり取り。

 でも、その短い文の奥に、自分だけが特別な気がしてしまう。

 自分が“利用されている”ことを分かっていながら、

 その錯覚にすがる夜が続いた。


 十月、会社創立記念の周年パーティー。

 都内のホテルで開かれるそのイベントは、

 全社員が顔をそろえる年に一度の華やかな夜だった。


 久しぶりにスーツを新調し、鏡の前でネクタイを締める。

 それだけで、少しだけ気持ちが浮ついた。


 会場に着くと、照明の下で人の波がきらめいていた。

 笑い声、グラスの音、シャンパンの泡。

 誰もが、普段より少しだけ明るい顔をしていた。


 しばらくして、視界の端に川瀬の姿が見えた。

 紺のワンピース、髪は緩くまとめられ、

 肩越しに落ちる光がその輪郭をやわらかく縁取っていた。


 彼女は岡島と話していた。

 周囲には数人のメンバーが集まり、笑い声が響く。

 その中心で、川瀬が穏やかに微笑んでいる。


 胸の奥がきゅっと縮んだ。

 喜ばしいはずなのに、

 どこか遠くに行ってしまったような寂しさが押し寄せた。


 パーティーが終盤に差し掛かった頃、

 偶然、ドリンクテーブルで川瀬と並んだ。


「お疲れさまです」

「お疲れ。久しぶりだね」

「そうですね。……高瀬さん、最近楽しそうですね」

「え?」

「沢口さんと仲良くしてるって、聞きました」


 穏やかな口調。

 でも、その裏に微かな棘があった。


「そういう関係じゃないよ。

 相談に乗ってるだけだ」


 そう言うと、川瀬は少し笑った。

 けれどその笑みは、どこか寂しげだった。


「そういうの、本人から言われると、

 逆に信じられなくなるんですよね」


 言葉が詰まった。

 それ以上、何も言えなかった。


 会場の照明が落ち、拍手が湧き起こる。

 司会者の声が響く中、

 二人の間には言葉よりも長い沈黙が残った。


 周年パーティーの二次会は、ホテルから少し歩いた先のダイニングバーだった。

 低い天井、琥珀色の照明、磨かれたカウンター。

 テーブルの上では、氷の溶ける音と、ささやき声が混じり合っていた。


 僕はグラスを半分ほど傾けただけで、ほとんど口をつけなかった。

 乾いた笑いに合わせて頷き、心ここにあらずのまま時間を過ごす。

 端のテーブルでは、岡島とプロジェクトメンバーが楽しげに談笑していた。

 川瀬の笑顔が、灯に照らされて薄く揺れる。


 やがて、二次会のお開きが告げられ、店の外へ人が流れ出した。

 夜気は思ったより冷たく、歩道の隅に丸められた落ち葉が踏まれて音を立てた。


 「少し、歩きませんか」


 背後から、川瀬の声。

 振り返ると、彼女は黒い薄手のコートの襟を押さえて立っていた。

 うなずくと、僕らは並んで街路樹の続く通りへと歩き出した。


 最初の数十メートル、言葉は出なかった。

 横断歩道の信号が青に変わる。

 渡ると、遠くで電車の音が鳴った。


 「……さっきは、ごめんなさい」


 川瀬が口を開いた。

 足取りは一定で、横顔は静かだった。


 「私、ああいう場所だと、うまく話せなくて。

  でも、どうしても気になってたことがあって」


 「気になっていたこと?」


 「沢口さんのことです。

  高瀬さんと“仲がいい”って、いろんな人から聞きました。

  『相談に乗ってるだけ』って言葉を信じたいのに、

  信じようとすればするほど、変に考えてしまって」


 僕は立ち止まった。

 街灯が歩道の端に落ち、影が二人分、細長く伸びていた。


 「誤解だよ。仕事の話だ。

  あの人は、ちゃんと努力してる。だから、僕はそれを手伝ってるだけで——」


 「——その“だけで”が、私には難しい」


 彼女の声がわずかに震えた。

 感情を抑え込んだ声。それでも溢れてしまったものが、言葉の端々に滲んだ。


 「高瀬さんは、人に優しい。

  それが長所だって分かってるのに、私、時々ずるいって思ってしまう。

  みんなに同じように優しいあなたに、

  私だけ特別でいたいなんて、図々しいのに」


 歩道の先に、信号待ちの人だかりが小さく見えた。

 遠くまで続くテールランプの線が、赤い川のように流れていく。


 「……だから、確かめたかった。

  本当は、どうなんですか?」


 「本当も何もない。——俺は」


 そこで言葉が止まった。

 胸の内側で、長い間巻かれていた糸の端が、するりと指に触れた気がした。

 掴んだら、戻れない。


 僕は呼吸を整え、まっすぐに彼女を見た。


 「——俺は、君のことが好きだよ」


 夜気が、肺の奥まで澄んでいく。

 言葉を出した瞬間、足元の世界がほんの少し傾いたように感じた。


 川瀬は、目を伏せた。

 長いまつ毛の影が頬へ落ちる。

 時間にして数秒。けれど、終わりのない沈黙だった。


 「……ありがとう」


 小さな声。

 それは礼でもあり、別れの合図でもあった。


 「でも、今は答えられません」


 「どうして」


 「自分の気持ちが、分からないから。

  あなたのことは、尊敬しています。

  一緒に仕事をして、救われた瞬間が何度もあった。

  でも、今の私の“好き”が、

  あなたの“好き”と同じ場所にあるのか、確信が持てない」


 彼女は空の端を見上げ、言葉を探すように息を吐いた。


 「あなたといると、安心する。

  でも最近は、安心と不安が同じくらい胸の中にあって……

  沢口さんのこと、噂のこと、岡島部長のこと、

  仕事のこと——全部が混ざって、輪郭がぼやけてしまうんです」


 「噂は、作られたものだ」


 「分かっています。分かっているのに、

  私の中で“もしも”が消えない。

 その“もしも”を抱えたまま、あなたに『はい』とは言えない」


 路肩の植え込みに、冷たい風が触れ、葉が擦れた。

 ぽつり、と頬に冷たいものが落ちる。

 見上げると、街灯の輪に細い雨が揺れていた。


 「時間をください。

  私、仕事でも大きな局面に入ってる。

  自分を整えずに、あなたを巻き込みたくない」


 「どれくらい?」


 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

 川瀬は、考えるように視線を落とし、ゆっくりと首を振った。


 「分かりません。

  期限を切るのは、誠実じゃない気がする。

  でも、逃げたいわけじゃない。

  ……ちゃんと向き合いたいから」


 雨が少しだけ強くなった。

 歩道に暗い斑点が増える。


 僕は小さくうなずいた。

 保留——それは、拒絶よりも遠い地点に思えた。

 けれど同時に、もっとも曖昧で、もっとも脆い約束でもあった。


 「分かった。待つよ」


 言ってから、胸のどこかが軋む音を聞いた。

 待つという言葉が、未来を保証するわけではないと知っている。

 それでも、今はそれしか言えなかった。


 「ありがとう」


 川瀬は小さく頭を下げ、

 交差点の向こう側に手を振る誰かへ向かって歩き出した。

 傘を差す人々の列の中に、その背中はすぐ紛れた。


 残された僕の肩に、雨が細かく降り積もる。

 街灯の光が濡れたアスファルトに跳ね、

 水面のように波打っていた。


 ——濁った湖。


 思考の底で、その言葉が響いた。

 霧は、まだ晴れない。


 その夜を境に、時間は静かに、しかし確実に進んだ。

 “待つ”と口にしたのは僕自身だ。

 だから、焦る理由はどこにもないはずだった。


 ……はずだったのに、朝の目覚めは空洞のように軽かった。

 身体は起きるのに、心が起きてこない。

 会社へ向かう足取りは、習慣だけが動かしている。


 日中は仕事に没頭した。

 タスクを細切れにし、締切を短く刻み、

 目の前の処理に意識を沈めていく。

 視界の隅に、彼女のアイコンが浮かぶたび、

 視線を外して“既読”を遅らせた。


 夜になると、空虚が戻ってくる。

 部屋に帰り、シャワーを浴び、

 ベッドの端に腰を下ろす。

 天井の角に、薄い影がひとつ。

 そこに、答えはない。


 ——『日報です。クロスアーク、次の段取りに入りました』


 ある夜、短いメッセージが届いた。

 定型文のように整った文章。

 僕は同じくらい整った返信を返す。


 ——『了解。体調に気をつけて』


 やり取りは、そこで終わった。


 数週間が過ぎた。

 朝の空気はさらに冷たくなり、

 街路樹が色を深めていく。

 季節は変わる。

 それだけは疑いようがない現実だった。


 そんなある日、社内ポータルに人事のニュースが上がった。


 ——『岡島雅也、人事本部 本部長代理に昇進』


 合わせて、新組織図と主要メンバーの配属が公開された。

 スクロールする指が、ある箇所で止まる。


 “クロスアーク統合計画室 実装グループ

  主任 川瀬 美咲”


 喉が渇く。

 文字は静かに並んでいるだけなのに、

 その並びが、これからの距離を規定してしまう。


 昼過ぎ、給湯室で紙コップに湯を注いでいると、

 背後から小さな気配がした。


 「——おめでとうございます、だね」


 振り向くと、加賀が立っていた。

 いつものように軽い笑み。

 けれど、その目の奥の温度は読み取れない。


 「岡島さん、やっぱり上がったな。

  で、川瀬さんも一緒に“向こう側”へ。

  ……高瀬、どうする?」


 「どう、とは」


 「いや、いろいろ。

  人事にとって“誰がどこにいるか”ってのは、単なる配置じゃない。

  関係の距離でもある」


 言って、肩をすくめる。

 それ以上の言葉は置いていかなかった。


 その日の夕方。

 廊下の向こうから、彼女が歩いてきた。

 新しい社員証、新しい配属先の表示。

 足取りは軽くも重くもなく、ただ前へ進むための速度。


 エレベーターホールの前で立ち止まる。

 僕も自然と足を止めた。

 人の流れが二人を迂回していく。


 「——昇進、おめでとう」


 言うと、彼女は短く笑った。

 嬉しさと、緊張と、責任の重さが混ざった笑み。


 「ありがとうございます。

  ……あのときの、答えを言わなきゃ」


 喉の奥で、何かが硬くなる。


 「ごめんなさい。

  私、あなたの気持ちには応えられません」


 言葉は静かで、乱れがなかった。

 その静けさが、余計に決定的だった。


 「理由は、たぶん一つじゃない。

  仕事のこと、私自身のこと、

  あなたの優しさの“形”のこと。

  どれも少しずつ関係していて、

  どれか一つを変えればどうにかなる、って種類の問題じゃないんです」


 「……そうか」


 それ以上、何も出てこなかった。

 準備していた言葉は、どれも薄っぺらに見えた。

 肯定も、否定も、贈り物にならない。


 エレベーターが到着し、扉が開く。

 彼女は軽く会釈し、乗り込む前に一度だけ振り返った。


 「高瀬さん。

  私、あなたに救われた時間がたしかにありました。

  だから、嘘は言いたくなかった。

  ありがとうございました」


 扉が閉まる。

 反射した自分の顔が、矩形の中で歪む。


 廊下の窓の向こうで、雲が低く流れていた。

 雨は上がっていたが、路面にはまだ薄い水の膜が残っている。

 そこに映る空は、濁った湖のように揺れていた。


 夜。

 部屋の明かりを落とすと、スマートフォンが震えた。

 画面には馴染みの通知。


 ——『夢占い:濁った湖は、整理されない心の写し鏡』


 笑う気力はなかった。

 ただ、親指で通知を消す。

 消えたのは文字だけで、映ったものは消えなかった。


 ベッドに横たわると、天井の四角がゆっくりと滲んだ。

 まぶたの裏に、霧の立つ水面が広がる。

 向こう岸に、ひとりの影。

 言葉は届かない。

 ただ、口の形がこう動いた気がした。


 ——さようなら、、。


 目を開ける。

 暗闇の中で、電子時計の数字だけが正確に時を刻んでいた。

 世界は止まらない。

 だから、僕も止まれない。

 その単純な事実だけが、今夜の唯一の救いだった。


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