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第1章 濁った湖の夢

 水面が濁っている。


 まるで誰かが底を掻き回した直後のように、湖は泥と光を混ぜ合わせて、重たい沈黙

をたたえていた。


 風はなく、音もない。ただ時折、水面にぽつりと小さな気泡が浮かび、それがはじけ

る音だけが、やけに大きく響いた。


 そんな場所に、僕は立っていた。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも分からないが、ただ、目の前の光景が“夢”であることだけは、はっきりと分かっていた。


 ぼーっと見える湖の向こう側に、一人の女性がいた。


 白いワンピース。長い髪が肩口でふわりと揺れる。顔は霞がかかったようにぼやけているのに、なぜか“知っているような気がする”という奇妙な感覚があった。


 彼女はこちらを見て、微かに笑った。その表情には、親しみと、どこか寂しさが入り混じっていた。何かを言っているけれど、言葉は風にさらわれて聞こえない。

 

 ただ、水面の音と重なるようにして、断片的な響きだけが耳に残った。


 ──静かですね。

 ──よく、来るんですか。

 ──こんな場所、落ち着きますよね。


 そんな他愛のない言葉だったように思う。けれど、彼女の声はすぐに水音に溶けて消えた。


 湖面がざわめき始め、空気が少し冷たくなる。風が吹き抜け、彼女の髪が乱れる。その瞬間なぜか胸の奥が締めつけられた。懐かしいというより、どこか痛みを伴う感覚だった。


 彼女が何かを言いかけたように見えた。けれど、その声はもう届かない。代わりに、霧が一面に広がって、彼女の姿をゆっくりと飲み込んでいった。


 


 ——そこで、目が覚めた。


 


 時計の針は午前六時二十四分を指している。まだ外は暗く、冬の空気が窓の隙間から忍び込んでくる。

 

 枕元のスマートフォンが、けたたましく震えた。画面には、占いアプリの通知が浮かんでいる。

 

 ——『夢からわかるあなたの未来:濁った水面は心の不安を示します』。


 ため息が漏れた。どうでもいい、と口の中でつぶやく。けれど、その言葉がどこか喉に引っかかったまま、しばらく動けなかった。


 

 洗面所の鏡の中には、少しやつれた三十代の男が映っていた。無精髭を剃りながら、ふと自分に問いかける。


「努力って、なんだろうな」


 自然と言葉として飛び出たものは、ここ数年、僕は自分にそう言い聞かせながら生きてきたもので。努力は裏切らない——そう信じてきた。

 

 努力しても報われないのは、努力が足りないからだ。そうやって自分を奮い立たせ、目の前の仕事を処理してきた。


 だが、心のどこかで分かっていた。努力は、報われないことの方が多い。誰かが見てくれていると思っていても、実際には誰も見ていない。

 

 結果だけが、すべてを語る。それが現実だった。


 

 職場までの電車の中は、いつも通りぎゅうぎゅう詰めだ。

吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔を見つめる。


 無表情。生きてはいるが、生きている実感はない。隣の女子高生がイヤホンから漏らす音が、やけに現実的に響いた。


 会社は都内の中規模システム開発会社。社員数は百人程度。僕はその中で、淡々とプログラムを書く。入社して八年。目立たず、問題も起こさず、いわば“器用貧乏”というやつだ。


 自動ドアの前で、社員証をかざす。

 

 ピッという軽い電子音。「高瀬慎一」と印字されたセキュリティカードが、青く光ってドアを開く。いつも通りのオフィスの空気が流れ込んでくる。

 

 それは、眠気と同じくらいの“日常の重さ”を連れてくる音でもあった。



 出社して席に着くと、同僚の田口が顔を出した。



「おはよう、高瀬。昨日のバグ修正、ありがとう。助かったよ」

「おう。まあ、地味な仕事だけどな」


 田口は笑いながらコーヒーを啜る。

「地味な奴が一番信頼されるんだよ。派手な奴は続かない」


 そう言って笑うその顔が、妙にまぶしく見えた。

 

 僕は苦笑で返すしかなかった。


 


 午前十時、部内ミーティングが始まる。

 進捗報告、次期プロジェクトの体制確認、そして——。


「それから、今日から新しいメンバーが加わります」


 課長がそう言って扉を開ける。

 一瞬、空気が動いた。

 入ってきたのは、一人の女性だった。


 黒いスーツに淡いグレーのブラウス。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、柔らかな声で自己紹介を始めた。


「はじめまして。川瀬美咲と申します。前職ではECサイトの運用を担当しておりました。至らない点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 その瞬間、僕の心臓がひとつ跳ねた。


 どこかで、見たことがある。

 いや、“夢で”会ったのだ。


 濁った湖のほとりで、穏やかに微笑んでいた、あの女性。


 名前を聞いた瞬間、背中を冷たいものが走る。

 川瀬美咲。聞き覚えはない。それなのに、頭の奥で何かが軋むような感覚がした。


 彼女の視線が、一瞬だけこちらをかすめた。

 目が合った。

 まるで、知っている人を見つけたように、一瞬、表情がわずかに揺れた気がした。


 だがすぐに、彼女は何事もなかったように微笑みに戻った。


 


 会議が終わり、課長が僕に声をかけた。

「高瀬、悪いけど、川瀬さんの教育担当をお願いできるか?」

「……ええ、分かりました」


 やれやれ、と思いながらも、心の奥底では奇妙な高鳴りを感じていた。


 夢で出会った女が、現実に現れる。

 そんな馬鹿げた話があるか。

 だが、彼女の瞳に映る淡い光を見た瞬間、僕の中の理屈はすべて消えた。


 


 その日の帰り道、曇ったガラス越しに夜の街を眺めながら、僕は考えていた。


 これは、偶然なのか。

 それとも、何かの“因縁”なのか。


 努力ではどうにもならないことが、この世にはある。

 けれど、もしこの出会いに意味があるとするなら——。


 濁った湖の夢が、現実に続いているのだとしたら。


 僕は知らぬ間に、もうその湖の中に足を踏み入れていたのかもしれない。


 


 夜、帰宅して布団に入る。

 眠気の中で、またあの湖の光景がぼんやりと浮かぶ。

 遠くで、誰かが小さく笑っている気がした。


 


 ——「静かですね」


 


 その女性の口がそう動いたように見えたのを最後に、意識は深く沈んでいった。

これから起こること自体がまるで夢のような出来事だというのに、実際の夢と

現実が溶け込んでいくような、、そんな錯覚を見せ始める。


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