第11話 「カイル、出禁な?」
ヒナタは、そっと息を吸った。
膝の上で組んだ手が、わずかに震えているのが分かる。
「おいヒナタ、無理しなくていいんだぞ?」
そう彼女に告げる俺の横で、ネリオは何も言わずスイっと指先を軽く横へ動かす。
その途端、静かに1杯のお茶が湯気を立ててテーブルに現れた。
淡い香りが、部屋の緊張をほんの少しだけ和らげる。
「……ありがとうございます」
ヒナタはそう呟いてカップを手に取ると、少し間を置いてから口を開いた。
「私が離縁された理由を、話すわ……」
俺の知らない彼女の過去――。
「私は……身に覚えのない罪を着せられたの」
ヒナタは、お茶が入ったカップを両手で包むように持ちながら、ゆっくりと語り始めた。
「カイル様とは政略結婚だった。でも貴族ならよくあることよ?
だけど彼は、ろくに私の顔も見ようとはしなかった……。私は実家でも、彼の屋敷でも浮いた存在だった」
(知識として知ってはいたけど、こうやって聞くと切ないもんだな……)
「カイル様は、最初から私に関心なんてなかった。しかも愛人を囲っているのにも、私は気づいてたの。
でも、……何も言えなかった」
「何だそりゃ!? 結婚する前から愛人って、アイツふざけてんのか?」
「ユウマさん、落ち着いてください。貴族社会では、そういうことも珍しくないんです。
――貴方が育った世界とは、違うのかもしれませんがね」
「……! ネリオお前、まさか……!」
不思議そうに俺達のやり取りを眺めていたヒナタが、少し間を置いて小さく息を吐いた。
「さあ、ヒナタさん。続きを聞かせてください」
ネリオの言葉に彼女は軽く頷くと、決心したように話し始める。
「ある日、カイル様の屋敷の禁書庫で事件が起きたの。彼の愛人が、若い使用人と密会していたのよ。
それを、別の使用人に見つかって……。でも、その若い使用人の男がとっさに嘘をついた」
「ほう、彼はなんと?」
ヒナタの声が、ほんのわずかに震える。
「『ヒナタ様に誘われた』って――」
「はあ!?」
俺はつい素っ頓狂な声を出してしまった。
「……まったくの濡れ衣だったのよ。なのにカイル様は、私の話を一切信じようとはしなかった」
「マジかよ……」
スマホもネットも無いこの世界で、自身の無実を晴らすことがどれだけ難しいか――。
俺はぐっと拳を握りしめた。怒りと、どうしようもない悔しさが喉元まで込み上げる。
「……それでどうなったんだ、ヒナタ。それだけで終わってねぇから、お前はあの村にいるんだろ?」
思わず口にした俺の問いに、ヒナタは小さく頷いた。
「ええ。……彼は逆上して、『浮気した罰だ』って言い出して、私を屋敷から追放したの」
「それは余りにも酷い対応ですね。……ご実家の方には戻られなかったのですか?」
ネリオの言葉に、ヒナタは黙ったまま首を横に振る。
「いいえ、公爵家には戻りませんでした。……戻れなかったんです」
「カイルだけじゃなく、実家までもか……。そこでもお前の話を、誰も聞こうとしなかったんだな……?」
ヒナタは顔を上げて今にも泣きそうな顔で、俺を見つめた。
「……公爵家にとって、私は『面子を潰した存在』よ? 真実かどうかなんて、どうでもいいの。
そんな噂が出た時点で、家の評判に傷がつく……。だから庇わずに、私を切り捨てたのよ」
「は……、マジかよ。自分の娘を守らずに、面子が大事とか……。どんだけクソ親なんだよ」
苛つく俺を、じっとネリオは見つめていた。
「……実に興味深い」
その言葉に、俺の眉がぴくりと動く。
「おいおい、『興味深い』って何だよ……。人の不幸を観察でもしてんのか?」
「何か気になることでもあったんですか? ネリオさん」
ヒナタが少しだけ警戒したような声音で問いかけると、彼は柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、少しだけ……。他人のために本気で怒るというのは、私には無い感情ですから」
「……は?」
「ユウマさん、あなたが怒ったところで、何か得られるものがあるわけではないでしょう?
それでもなお、そうやって拳を握る。……実に興味深い行動です」
少し羨ましそうに話すネリオに、俺の怒りはどこかへ消えてしまった。
ネリオの言葉が消えたあと、少しだけ沈黙が流れる。
その静けさの中で、俺はふと思い出した。
カイルの、あの高慢ちきな顔。ヒナタが記憶喪失なのをいいことに、アイツは彼女と再婚しようとしてた。
「……なあ、ヒナタ」
彼女がカップを置く音が小さく響く。
「何でカイルのやつは、お前と再婚しようとしてたんだ? ヒナタを屋敷から追い出したんだろ?」
俺の問いかけに、ヒナタは心底嫌そうな顔をした。
「間違いだったって」
「……は?」
「……結局、私を追い出した理由なんて、全部嘘だったの。愛人と使用人の……くだらない嘘」
それを聞いたネリオは、興味津々でぐっと身を乗り出した。
「それで……彼はどんな言葉を使ったんです?
自分の過ちを知ったとき、人はどんな感情を抱くのか──私は、そういう瞬間にとても興味があるんです」
「おい、ネリオ! 近すぎるぞ」
「ああ、これは失礼しました。つい、ね……」
ネリオがすっと距離を戻したその瞬間、ヒナタはぽつりと呟いた。
「──彼が私に謝ることはないわ。
カイル様は、『戻ってくれば、前と同じ生活をさせてやる』って。ただそれだけ」
「呆れて言葉も出ねぇよ……」
俺は思わず声を漏らす。
「自分の間違いを認めたくなかったのよ。プライドが許さなかったんでしょうね。今の彼は、社交界では笑いものだそうよ。
謝る代わりに私を元に戻して、全てなかったことにしようとしたの」
思考が止まった俺の横で、ネリオが感嘆の声を漏らす。
「……なるほど。それは……、実に人間らしい反応ですね」
「感心しすぎなんだよ、ネリオは」
「……こういう話に、動じない方も珍しいですね。生まれや育ちの違い、ということでしょうか」
意味深な笑みを浮かべるネリオに、俺はその意図を察しつつも、そっと肩をすくめて見せる。
その隣で、ヒナタは呆れたように小さくため息をつく。
嬉しそうに笑ったネリオは、また興味深げに目を細めた。
──ふと、思ったことを口にする。
「でもさ、ヒナタに魔族の血が混じってるって、なんでなんだ?」
俺の問いに、ネリオは少しだけ考えるような間を置いてから答えた。
「さあ、理由までは分かりませんが……先祖にそういう方がいたのかもしれませんね。
『先祖返り』という言葉もありますから」
「へえ……なんか不思議だな。もしかしてパンケーキが毎回焦げるのもそれが原因だったりしてな?」
冗談を言う俺に、ネリオは至極真面目な顔で答えた。
「その可能性は高いと思いますよ? ヒナタさんの魔力が炎を通じてパンケーキに注入されているようですから。
彼女の魔力の色は赤だったでしょう?」
「そう言えばそうでした……」
ヒナタは手の平を、部屋の灯りにかざして眺めている。
俺は何かを確かめるように、彼女の顔をじっと見つめていた。
──ふと、視線の端で、ネリオがこちらを見ていることに気づく。
その目が、一瞬だけ、赤く光った気がした。
ヒナタの魔力と同じ、深く鮮やかな紅――。
……俺の気のせい、だっただろうか。