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後部座席より

信号で一度だけ停車したとき、車内の空気が、ふいに一段と重くなった。

 湿気とは違う。

 押しつぶされるような“重さ”。


 そのとき――

 後部座席から、微かに声がした。


 「……ありがとうございました。」


 女の声だった。

 だが、その抑揚は、乗車していたどの女のものでもなかった。

 若くもなく、老いてもいない。

 そして、言葉に感謝の感情が一切なかった。


 ただ、“式”としての言葉だけがそこにあった。


 恐る恐るミラーを上げると、そこにはもう、誰もいなかった。


 車内は空っぽだった。

 座席のシートも濡れていない。

 タオルの気配も、もう感じない。


 俺はそっとブレーキを離し、深夜の通りへと車を滑らせる。


 青山通りは、しんと静まり返っていた。

 少し走ると、外苑の並木が見え、夜風がわずかに開いた窓から吹き込んだ。


 振り返るつもりはなかった。

 何があったとしても、タクシー運転手として生き残る術はただ一つ――

 **「後ろは見ない」**ことだ。


 だが。


 胸ポケットの中で、何かがわずかに揺れた。

 紙の感触。

 無意識に手を入れて取り出したそれは――


 五千円札だった。


 きれいな折り目。

 まるで誰かが、丁寧にしまっておいたような古さ。

 だが、発行年を見ると、平成元年。


 今の時代には、ほとんど流通していない旧札だった。


 ――いつ、渡された?


 そんな記憶はなかった。

 だが確かに、これは「最後の客」が、置いていったものなのだろう。


ミラーをもう一度、倒したままの角度で戻す。

 何も映らない。

 今夜の後部座席は空っぽだった。


 空を見上げると、雲の切れ間から、月がわずかに顔を覗かせていた。

 ビルの合間に覗くその光は、どこかひどく遠く感じた。


 俺はウインカーを出して右折する。

 行き先は決まっていない。

 けれど、どこかにきっと、次の“生きた客”が待っているはずだ。


 そうでなければ、今夜は終われない。



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