団地の記憶
ナビに従って進んでいくと、やがて地図の画面が妙な挙動を見せた。
ピンは「○○団地跡地」とされている場所を指しているのに、道が表示されていない。
まるで、地図がその存在を“忘れた”かのように、道筋が黒く塗り潰されたまま、ナビの声も急に黙ってしまった。
だが、俺には道が見えていた。
古びた歩道と、ところどころに残る柵。
マンション群があった頃の名残のような構造だけが、薄闇の中に浮かび上がっていた。
「ここで、いいです。」
女がぽつりと告げたのは、小さな公園跡の脇だった。
そこには、かつて住民用の掲示板と、背の低い時計塔があったらしい。
いまはどちらも撤去され、ただ地面に長方形の影だけが残っている。
車を停めると、彼女は財布を取り出そうとして、ふと手を止めた。
「……あの、やっぱり……お支払い、要りますか?」
その言い回しに、胸の奥がじんと冷たくなる。
「要りますか?」――それは、今生のやりとりとして成立しているのかどうか、彼女自身も確信が持てていないような言い方だった。
俺はあえて少し笑って返した。
「お気持ちだけで。」
女は小さく会釈し、静かにドアを開けた。
その瞬間、
濃い、土の匂いが入り込んできた。
それは雨あがりの匂いではなかった。
どこか、火が消えたあとの匂い。焦げた布と、湿った石の匂い。
女は傘もささずに、ふらりと歩き出す。
向かう先は、闇に沈んだ空き地の奥――。
俺は思わず、運転席から降りて見送るように立ち上がった。
その背中に、
しがみつくように、白い手が見えた。
黒髪の女――中央に座っていた“それ”が、彼女の肩に手をかけ、まるで「案内する」ように、その背に乗っていた。
足はなかった。
あるいは地面に触れていなかった。
月も出ていない空の下、女の体はゆらりゆらりと傾ぎながら、敷地の奥へと進んでいく。
やがて、影が塀の向こうに消え、完全に闇に溶け込んだその瞬間――
背中の白い手だけが、こちらを向いて振られた。
そう見えたのは、一瞬だった。
それでも、俺の足は根が生えたように動かなかった。