一人、また一人
六本木通りに入るころには、辺りはすっかり夜の顔になっていた。
街灯の下に浮かぶ歩行者の影も、どこか湿気を含んで見える。
信号のたびに車を止めるたび、ルームミラーの奥に映る三つの頭が視界の隅をかすめて、ぞわりと背筋を這っていく。
やがて、年上の女がふいに声を上げた。
「すみません、私ここで降ります。」
指さしたのは、赤坂駅近くの大通り。
乗車してからおよそ15分。目的地としてはごく自然なタイミングだった。
「かしこまりました。」
路肩に寄せてゆっくりと停車する。
ハザードを焚いて後部ドアを自動で開けると、女はバッグを手にして、静かに降りた。
「じゃあね。」
助手席越しに振り返った若い方の女に、手を軽く振る年上の女。
そうしてドアが閉まり、再び静寂が戻る。
だが――
ルームミラーには、まだ二人、座っていた。
中央の席にうつむいていた女は、先ほどよりも少しだけ顔を上げ、前を向いている。
やはり喪服ではない。
濡れた黒髪がぴたりと頬に張り付き、その隙間から、乾いた唇がのぞいていた。
息をしているのか、していないのか。
その存在が、もはや“人間”のそれに見えなかった。
俺は自然と視線を前に戻し、発進する。
「すみません……ちょっと気分が悪くなってきて……」
若い方の女が、ぽつりとつぶやくように言った。
「このまま家まで、お願いしていいですか?」
「もちろん、大丈夫です。」
言葉を返すと同時に、目的地の詳細を尋ねようとミラーを覗いた。
「○○団地跡の近くです。……あそこ、まだ道だけはあるんです。」
団地跡。
その言葉に、俺の胸が微かに騒いだ。
やはり――さっき聞いた団地の名と同じだった。
かつて都営だった建物群はすでに全棟取り壊され、いまは再開発予定の空き地になっている。
なのに「帰る」とは?
「あの……今、団地って……もう……」
言葉を濁しながら問いかけたとき、彼女は無言のまま頷いた。
その表情は、悲しいとも、懐かしいとも、ただ「覚悟」を決めた人間のものに見えた。
車は静かに表通りを逸れ、住宅街へと入っていく。
通りの街灯は少なく、時折猫の影が横切るだけ。
道端に立つ自動販売機の灯りが、かえって車内の緊張を際立たせていた。
そしてルームミラーのなか――
中央の女が、まるで“連れて行くことに納得した”かのように、ゆっくりと顔を上げてこちらを見ていた。
いや、見ていたのではない。
見せていたのだ。
そこに、“いる”ということを。