第六章 雨の告白
(海の日から数日後)
朝晩の空気が、重く湿り気を帯びていた。
街路樹の葉を打つ雨粒、灰色に煙る空。
梅雨も、そろそろ終わりが近い。
そのはずなのに、降り続く雨は弱まる気配を見せなかった。
あの日、海から帰ってからも、僕たちはメッセージアプリで何度かやり取りをしていた。
《今日は雨だね》
《うん、降ったり止んだり。流くんはバイト?》
《午後から。桜さんは?》
《病院。検査だって。》
《そっか……終わったらゆっくり休んでね》
短いやり取りの中で、
彼女が頻繁に病院へ行っていることには、うすうす気づいていた。
でも、その理由を、
僕はまだ知らなかった。
直接会うのは、海の日以来、久しぶりだった。
雨は、静かに降り続いていた。
歩道橋の上
傘を差しても、足元はじんわりと濡れていく。
桜さんは、いつもより不安げで、少し疲れた顔をしていた。
唇は青白く、瞳の奥にどこか遠い影が揺れている。
僕は、どうしていいかわからなかった。
「……桜さん、大丈夫?」
情けないくらい、震えた声だった。
心配したくて、でも怖くて、声が裏返りそうだった。
桜さんは、ふっと微笑んだ。
その笑みは優しくて、雨の冷たさを忘れるほどだった。
だけど、その優しさの奥に、どこか悲しい色が混ざっていて――
胸がざわついた。
少しの沈黙が落ちる。
傘が雨粒を弾く音と雨音だけが、二人を包んでいた。
桜さんは何かを決意するように、ゆっくりと口を開いた。
「……ねえ、流くん」
「う、うん?」
「……私、ずっと……言わなきゃって思ってたことがあって」
その声はかすかに震えていた。
俯いた顔から、濡れた髪が一房落ちる。
「……でも、どうしても怖かった。
言ったら、流くんまで悲しませちゃうから……」
そうつぶやいて、桜さんは弱々しく笑った。
「……でもね、もう言わなきゃいけないって思ったの」
ゆっくりと顔を上げた瞳は、潤んで揺れていた。
「私……病気なんだ」
一瞬、世界から音が消えた気がした。
彼女は視線を落とし、濡れたアスファルトをじっと見つめている。
肩がわずかに震えていた。
「ど、どこか……悪いの?」
かすれた声でそう聞くと、桜さんは小さく頷いた。
雨に濡れた髪が、頬に貼りつく。
「……卵巣がん。ステージⅣだって」
その言葉はあまりにも静かで、雨音にかき消されそうだった。
胸の奥が、冷たい手でぎゅっと掴まれる感覚。
何も言えなかった。
何を言えばいいのかわからなかった。
「……でもね、治療と体力次第では……五年、十年と生きられる可能性もあるって」
桜さんはそう言って、初めて僕を見た。
その瞳は雨で濡れていたけど――それが涙かどうかはわからなかった。
「……ごめんね、こんなこと……
言わないでいられたらって、ずっと思ってた。
でも、流くんにはちゃんと……知っててほしくて……」
震える声が、雨音よりも深く胸に刺さった。
何か言わなきゃ。
大丈夫だよ、治るよ――
そんな言葉しか浮かばなくて、でも全部、嘘みたいで。
僕は震える手を伸ばし、桜さんの肩にそっと触れた。
彼女の身体が小さく揺れる。
「……謝ることじゃないよ」
絞り出した声は、かすかに震えていたけれど、
その言葉だけは嘘じゃなかった。
桜さんは、少しだけ目を細めて笑った。
雨粒が頬を伝って落ちていく。
僕はその顔を、ただ見つめることしかできなかった。
でも、その指先だけは離さなかった。
雨はまだ止まない。
傘の外も、傘の内側も、灰色の世界に包まれている。
それでも僕は――
桜さんのそばにいたいと思った。