第五章 声にならない声
彼女は周りを見回し、誰もいないことを確認すると、僕のほうへ向き直った。
「……叫ばない?」
「叫ぶ?」
突然の言葉に聞き返すと、彼女は雨粒に濡れた睫毛を揺らしながら、小さく笑った。
「うん。誰もいないし」
確かに、雨で人足はなく、周囲は僕たちだけだった。
「何を叫ぶんだよ」
そう言った僕に、彼女は深く息を吸い込んで――
「ああああああああああああああああ!」
その声は、波音と雨音が混じり合う空気の中で、見事に響き渡った。
ざざん――という波のリズムに重なるように、彼女の「あああああ……」という叫びは、空へ、海へ、真っ直ぐに放たれていった。
思わず目を見開く。
彼女の身体がわずかに震えていて、それが寒さからなのか、感情の爆発なのか、一瞬では判断できなかった。
叫び終えた彼女は、肩を上下させながら大きく息を吐いた。
そして振り返り、まっすぐに僕を見つめる。
「……ごめん、ちょっとだけ叫びたくなったの」
「びっくりした。でも……なんか、気持ちよさそうだった」
「うん。びっくりするくらい、すっきりした」
ふっと笑った彼女の頬には、まだ雨粒が残っていたけれど、
その瞳からはもう、涙の気配は消えていた。
「ねえ、叫んでみたら?」
そう言って、僕の腕をそっと引く。
「……僕が?」
「誰もいないよ。見て。雨の海なんて、貸し切りだよ」
広げられた彼女の両腕。灰色の空を背景に、雨粒をそのまま受け止めるように伸ばしたその姿は、なぜだかとても自由で、羨ましく思えた。
「……じゃあ」
僕は少し背筋を伸ばし、目を閉じる。
「あーーーーーーーーーっ!」
声にならないほどの勢いで、息を吐きながら叫んだ。
それは何の言葉でもない。ただの衝動。
けれど、確かに何かが喉から胸をすり抜けていった。
叫び終えると、彼女が拍手をしていた。
「いい声だった!」
僕は少し照れくさく笑ったあと、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「……そういえばさ」
「ん?」
「名前、聞いてなかったなって」
「……あ」
彼女は少し驚いた顔をしてから、ふわりと笑う。
「風波 桜……っていうの」
「……桜さん」
「そっちは?」
「志島 流」
「流くん……か。いい名前」
雨が少しだけ弱まってきた空の下で、
初めてお互いの名前を口にした。