第四章 雨の日の海
そのまま二人で、しばらくその場に佇んでいた。
やがて、近くの海まで歩いてみない?と僕が言うと、彼女は小さく頷いた。
雨足は少し弱まり、僕は傘を畳んで歩き出す。海が近づくにつれ、潮風がふわりと鼻先をかすめた。
「……潮の匂い、してきたね」
そう言うと、彼女はぱっと顔を上げた。雨に濡れた髪が少しだけ頬に貼りついている。
「うん……ほんとだ。わたし、海の匂い、好き」
そう答えたときの彼女の表情は、昨日までの翳りが嘘みたいにやわらかくほどけていて――思わず、胸の鼓動が高鳴る。
海へ向かう道は、細くて静かだった。
アスファルトの端を跳ねる小さな雨粒。そして何より、遠くから届く、あの潮の香り。
僕は空を仰ぎ、深い灰色に滲む雲を見つめる。そして足元の濡れた地面を踏みしめると、二人の靴が同時に水たまりを踏み、ぴしゃりと音を立てた。
やがて、海が見えてきた。
灰色の空と鈍い波の色が溶け合うように繋がっていて、境界線は曖昧だった。
風が吹く。彼女の髪がふわりと舞い、その香りが潮風と混じり合って、僕の胸に静かに染み込む。
彼女は、砂浜のほうへ歩いていった。
湿った砂を踏みしめ、波打ち際の近くで立ち止まる。細めた瞳で海を見つめる横顔が、灰色の空と溶け合っていた。僕は少し遅れて彼女の隣に立つ。さっきよりも近い距離で、彼女の体温を微かに感じるほどに。
「……ねえ」
不意に彼女が口を開いた。
「こうしてると、涙が、少し流れていく気がする」
「……そっか」
それ以上、言葉が続かなかった。けれど、彼女の声が、すべてを語っていた。
僕は何も言わずに、ただ彼女の隣に立ち続けた。
何もせず、何も問わず――
ただ、今という時間を、雨の匂いと潮風の中で、静かに共有していた。