第三章 傘の下で
僕は半分に斜めにカットされていたトーストを手に取って齧り、
残ったもう一方をそっと彼女の前に移動させた。
「ありがとう」と少し笑って言いながら指先でトーストをつまむ。
小さくちぎって、ふわりと甘い匂いが立つ部分を、
そのまま唇に運ぶ。
その動作が、妙に丁寧で、どこか幼さを感じさせた。
けれど同時に、昨日の雨の中で流した涙の余韻が、まだその奥に淡く残っているようで――僕は思わず、コーヒーカップを手に取り、視線をごまかした。
「……ごめんね。もらっちゃって」
小さく呟く彼女の声は、コーヒーの香りに混じって、
優しく胸に沁みこんでくる。
「いいんですよ。むしろ……食べてくれて嬉しいですから。」
言った後、自分でも少しくすぐったくなって、
残った半分のトーストに齧りついた。
バターの塩気とパンの温かさを感じながら聞く。
「昨日の帰り、大丈夫だった?」
カップの縁を唇にあてたまま、ぼそっと尋ねる。
彼女は一瞬目を伏せ、そして頷いた。
「……うん。なんとかね。でも……ちょっとだけ、助かった。あの傘」
「ちょっとだけ?」
「うん。……傘だけじゃなくて」
その言葉に、胸の奥がふっと跳ねた。
彼女はゆっくりとテーブルの端を指でなぞっていた。何かを迷っているような仕草。
「……今日も、あそこに行ってみたの。昨日と同じ場所」
「そっか……」
「そしたら、また会えるかなって。少しだけ、思った」
視線を合わせた瞬間、彼女の瞳の奥に小さな灯がともっていた。寂しさと、それを隠そうとする強さ。まだ完全には晴れない、心の曇り空のような色。
だけど、その灯に照らされるように、僕の中の何かも静かにほどけていった。
「……じゃあ、明日も、行ってみる?」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
彼女は少し目を見開き――そして、ふわりと笑った。初めて見る、ちゃんとした笑顔だった。雨音の中で、それはやわらかく胸に染みた。まるで、長い雨にようやく光が差したようだった。
翌日、約束の時間より早く、僕は家を出ていた。
外には、軽い雨。嫌いじゃないけれど、内心では晴れてくれてもいいのに、と思う。
約束より時計を見ると40分程早く着いた。なのに、驚いたことに、彼女はもうそこに立っていた。
小さな駅の裏手にある、あの歩道橋の上に、彼女はいた。
一昨日も、彼女がそこにいた場所。
今日も雨が降る中、傘もささずに、ただ静かに佇んでいた。
通り過ぎる車の水音。
ポタポタと跳ねる水たまり。
そのすべてが、彼女の存在を際立たせているようだった。
思わず足を止める。遠くからでもわかる、細い肩。濡れた髪。少しだけ上を向いた横顔。
「……早いね」
声をかけながら近づくと、彼女はゆっくりと振り返った。
「……おはよう」
僕も挨拶を返しながら、そっと傘を傾けた。
「びしょ濡れじゃん……風邪ひくよ」
「少し、濡れてたい気分だったの」
淡く笑う彼女の瞳には、昨日よりずっと静かな光があった。
まるで、過去の雨に少しずつ馴染みながら、今を受け入れようとしているような――そんな光。
「……何もない場所だけど、ここからの眺めが好きなの」
「……わかる気がする」
今も視線の先では、車が走り、人が歩いている。
僕らは並んで、歩道橋の上から街を見下ろしていた。
何も起きない、ただの時間。
だけど、確かに彼女と分け合っている“今”があった。
僕の傘の下。二人分の距離は、まだ微妙に開いている。
けれど、昨日までの“見えない壁”のようなものは、もうなかった。
「雨、やむといいね」
「……ううん、このままでいい。今は、このままでも」
彼女の声が、雨音に溶ける。
僕は彼女が濡れないように傘をできるだけ傾けた。彼女の肩が、ちゃんと隠れるように。
僕にできるのはそれだけだった。