表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/35

第三章 傘の下で


僕は半分に斜めにカットされていたトーストを手に取って齧り、

残ったもう一方をそっと彼女の前に移動させた。


「ありがとう」と少し笑って言いながら指先でトーストをつまむ。


小さくちぎって、ふわりと甘い匂いが立つ部分を、

そのまま唇に運ぶ。


その動作が、妙に丁寧で、どこか幼さを感じさせた。

けれど同時に、昨日の雨の中で流した涙の余韻が、まだその奥に淡く残っているようで――僕は思わず、コーヒーカップを手に取り、視線をごまかした。


「……ごめんね。もらっちゃって」


小さく呟く彼女の声は、コーヒーの香りに混じって、

優しく胸に沁みこんでくる。


「いいんですよ。むしろ……食べてくれて嬉しいですから。」


言った後、自分でも少しくすぐったくなって、

残った半分のトーストに齧りついた。


バターの塩気とパンの温かさを感じながら聞く。


「昨日の帰り、大丈夫だった?」


カップの縁を唇にあてたまま、ぼそっと尋ねる。


彼女は一瞬目を伏せ、そして頷いた。


「……うん。なんとかね。でも……ちょっとだけ、助かった。あの傘」


「ちょっとだけ?」


「うん。……傘だけじゃなくて」


その言葉に、胸の奥がふっと跳ねた。


彼女はゆっくりとテーブルの端を指でなぞっていた。何かを迷っているような仕草。


「……今日も、あそこに行ってみたの。昨日と同じ場所」


「そっか……」


「そしたら、また会えるかなって。少しだけ、思った」


視線を合わせた瞬間、彼女の瞳の奥に小さな灯がともっていた。寂しさと、それを隠そうとする強さ。まだ完全には晴れない、心の曇り空のような色。


だけど、その灯に照らされるように、僕の中の何かも静かにほどけていった。


「……じゃあ、明日も、行ってみる?」


自然と、そんな言葉が口をついて出た。


彼女は少し目を見開き――そして、ふわりと笑った。初めて見る、ちゃんとした笑顔だった。雨音の中で、それはやわらかく胸に染みた。まるで、長い雨にようやく光が差したようだった。



翌日、約束の時間より早く、僕は家を出ていた。


外には、軽い雨。嫌いじゃないけれど、内心では晴れてくれてもいいのに、と思う。


約束より時計を見ると40分程早く着いた。なのに、驚いたことに、彼女はもうそこに立っていた。


小さな駅の裏手にある、あの歩道橋の上に、彼女はいた。

一昨日も、彼女がそこにいた場所。


今日も雨が降る中、傘もささずに、ただ静かに佇んでいた。


通り過ぎる車の水音。

ポタポタと跳ねる水たまり。

そのすべてが、彼女の存在を際立たせているようだった。


思わず足を止める。遠くからでもわかる、細い肩。濡れた髪。少しだけ上を向いた横顔。


「……早いね」


声をかけながら近づくと、彼女はゆっくりと振り返った。


「……おはよう」


僕も挨拶を返しながら、そっと傘を傾けた。


「びしょ濡れじゃん……風邪ひくよ」


「少し、濡れてたい気分だったの」


淡く笑う彼女の瞳には、昨日よりずっと静かな光があった。

まるで、過去の雨に少しずつ馴染みながら、今を受け入れようとしているような――そんな光。


「……何もない場所だけど、ここからの眺めが好きなの」


「……わかる気がする」


今も視線の先では、車が走り、人が歩いている。


僕らは並んで、歩道橋の上から街を見下ろしていた。

何も起きない、ただの時間。

だけど、確かに彼女と分け合っている“今”があった。


僕の傘の下。二人分の距離は、まだ微妙に開いている。

けれど、昨日までの“見えない壁”のようなものは、もうなかった。


「雨、やむといいね」


「……ううん、このままでいい。今は、このままでも」


彼女の声が、雨音に溶ける。


僕は彼女が濡れないように傘をできるだけ傾けた。彼女の肩が、ちゃんと隠れるように。


僕にできるのはそれだけだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ