第二章 静かな朝
雨は、今日も降り続いていた。
あのあと、特に言葉を交わすこともなく、僕は彼女に傘を渡し、そのまま家路についた。空はどんよりと重く、雨足は昨日よりも強い。足元の水たまりを避けながら、昨日と同じ場所に立ち止まる。無意識に、周りを見渡していた。
「いるわけ、ないか……」
小さく口にした声は、雨にすぐかき消された。
少し歩いて、近くの喫茶店に入る。モーニングセットを頼み、お冷を一口飲むと、ほっと息がこぼれた。窓際の席から見える外は、ますます激しさを増した雨に煙っている。
そのとき、扉が開く鈴の音がした。
何気なくそちらに視線を向けると、そこに彼女がいた。
肩まで濡れた髪。裾から滴る水。昨日と同じように、彼女は雨に打たれていた。けれど、その顔はどこか昨日より穏やかで、瞳の奥には静かな決意のようなものが宿っていた。
思わず立ち上がりかけたが、すぐに腰を下ろし直す。彼女の視線が店内をさまよい、やがて僕を見つけると――ほんのわずかだけ、口元が緩んだ気がした。
彼女は僕の席へ、ゆっくりと歩いてくる。濡れたコートの裾が揺れ、床に水滴を落としていく。
「ここ、いい?」
「……もちろん」
自分でも驚くほど、声は低く落ち着いていた。
彼女は静かに椅子に腰を下ろすと、ポケットからハンカチを取り出した。
けれど、そのハンカチは雨で濡れていて使えなかった。
僕はすかさず、自分のズボンのポケットからハンカチを取り出して差し出した。
「これ、使って」
彼女は一瞬驚いた顔をしてから、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう……使わせてもらうね」
そう言って、髪から滴る水をそっと拭った。
沈黙が落ちる。けれど、それは昨日の沈黙とは違った。逃げたくなるようなものではない。ただ、お互いに何かを探しているような、優しい静寂だった。
「……傘、ありがとう」
彼女が小さな声で言った。
「うん……」
それしか言えなかった。でも、それで十分な気がした。
外では変わらず、雨が激しく降り注いでいる。だけど、この喫茶店の窓辺だけが、ぽっかりと浮かんだ静かな時間に包まれていた。まるで、二人だけの世界に雨が降っているようだった。
ふと、彼女の視線が僕のモーニングセットに向けられた。トーストを見つめる瞳が、ほんのわずか揺れる。
「……美味しそう」
「半分、食べる?」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。彼女はまたあの、かすかな笑みを浮かべ――今度は、しっかりと頷いた。
それだけのことで、胸の奥にあたたかいものが、ゆっくりと滲んでいった。