注意看板
夜、その男は深い森の中をさまよっていた。
ハイキングに来たのだが、ちょっとした冒険心が仇となり、つい整備された道を外れてしまったのだ。
今感じるのは、深い後悔と絶望だけ。周囲は漆黒の闇に沈み、高くそびえる木々の合間から、月の光がわずかに足元を照らすのみ。見渡す限り、同じような木々が立ち並び、方角も時間の感覚もとうに失われていた。頼みの綱だったスマートフォンも、ついさっきバッテリーが尽きた。もはや嘆く気力すら湧かず、男はただ呆然と闇を見つめていた。
「……あっ」
ふいに、暗がりの中にぽつんと浮かぶ黄色く四角いものが目に入った。もしやと思い、慌てて駆け寄る。それは一枚の看板だった。
【気づいて。あなたの命は大事】
「これは……自殺防止の看板か……」
男はがっくりと肩を落とし、その場にしゃがみ込んだ。道案内の看板かと思ったのだが、期待は外れた。
……いや、待てよ。この看板が設置されているということは、少なくとも人がここに立ち入ったことがあるわけだ。道はそう遠くないのかもしれない。
男はそう思い直し、再び立ち上がると、周囲を見渡した。
すると、少し離れた場所に白い看板がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
【借金の問題は解決できます! 一人で悩まず、まずは相談から】
近づいて確認すると、やはり、自殺防止の看板だった。だが、男は気を落とすことなく、さらに目を凝らした。
【命は親からの贈り物。悲しむ人がいることを忘れないで】
【ゴミと命は持ち帰ろう】
【そんな大切なもの捨てるなんてとんでもない!】
【どんな問題もまずは相談してみて。あなたが死んだら悲しい】
【必ず立ち直れるよ。一人じゃない】
男は看板から看板へと歩き続けた。こうしていけば、いずれ道に出られるだろう、と。
【よく考えろ。あの世はここよりも暗く冷たい】
【迷惑行為禁止】
【ここで死ぬな。よそで死ね】
「ん……?」
【どうしても死ぬつもりなら、誰にも見つからないように、もっと奥で死ね】
【死ぬな。いっそ殺してやろうか?】
「いや、なんだこれ……」
看板の文言が、次第に棘を帯び始めた。慰めでも助言でもない。苛立ちと怒りが滲んでいた。確かに、自殺は迷惑ではある。遺体の処理にかかる労力や費用は、土地の所有者の負担となるだろう。
だが、ここまで攻撃的で、敵意をむき出しにする必要があるだろうか。一人で朽ち果てる人のことを思うと、どこかやるせない。よほど腹に据えかねているのだろうか……。
自分がここで死んだら、供養くらいはしてほしい――そんな考えが頭をよぎり、男は慌てて首を振った。自殺者に自分を重ねるなんて縁起でもない。
不穏な空気が漂う中、男は歩き続けた。そうするしかなかった。
【来るな】
【早く帰れ】
【そんなに死にたいのか?】
【ああ、殺してやるよ】
【こっちだ】
【向こうだ】
【そっちじゃない】
【逃げられないぞ】
「あ、あ、ああああああ!」
男はついに悲鳴を上げ、闇の中をがむしゃらに駆けだした。それでも視線だけは本能的に看板の文字を追っていた。
【死ぬぞ。死ぬ】
【汚すな】
【いいんだな? 殺すぞ】
【荒らすな!】
【この先危険! 注意!】
【呪ってやる】
◇ ◇ ◇
翌朝、男は森の外れ、畑の脇で息絶えた姿で発見された。
発見者である農家の老人は、首を傾げ、呆れたように呟いた。
「この人、文字読めなかったのかなあ……。【注意! 高圧電流!】って看板、ちゃんと立ってたのに。ああ、南無阿弥陀仏……」