贖罪9
第9節
美佳は、俺を見捨てたのだろうか。俺の浅ましい姿を見て、愛想を尽かしたのだろうか。警察に通報もしてくれないのだろうか。
俺は、相変わらず病院という名の監獄にいる。
この監獄の看守は、残酷で蛇のように執念深い。
松永は、いつになったら俺を解放するつもりなのだろう。
美佳を失ったショックから立ち直ると、俺は自分の状況に恐怖を覚えた。
助けがないのだ。
美佳に去られてしまうと、俺にはもうまったく、救いがないのだ。
入院したはじめのうちは、会社の同僚などが来てくれたこともあったが、精神病院と知るや、顔を引きつらせながら帰ってしまい、二度と来なくなった。最初は、精神病院に入院しているなんて嫌で、知り合いが遠のいてくれたことが有り難かったけれど……。
電話はない。ファクスもない。手紙も出せない。叫んでも、聞いてくれる者はない。
外部との連絡が、まったく取れない。
現代日本で、こんなことってあるのだろうか。
あるのだ。
今の俺よりも、刑務所の囚人のほうがまだましなのではないだろうか。刑務所ならば、手紙や電話くらいは許されている。
だが俺には、外の人間と接触する術がない。
美佳に去られてからというもの、誰も訪れる様子がない。もしかすると、松永は面会謝絶にしているのかもしれない。
そして松永が俺を出す気配も、まったく無い。出せばたちまち通報されるのだから、出しやしないだろう。いや、それよりなにより、奴はまだまだ、復讐し足りないようだった。
監禁、ゲロ飯、犬食い、美佳の次は、何をするつもりなのだろう。
奴は昔受けた仕打ちを、一々返すつもりなのだ。俺はそんなに酷いことをしただろうか。こんなに執拗に、虐めただろうか。
救いの道が見えなくなってしまうと、さすがに気弱になってしまう。
もう、ここに閉じこめられて何日になるのかさえ、分からなくなってしまった。昼か夜か、くらいしか分からない。こんな暮らしがあるだろうか。まるで怪奇小説のようだ。
世間から隔絶された、一つの大きな箱、閉じた世界。陰湿な復讐者。気が狂いそうになる。
怪奇小説なんかキライだ……あんな陰気で、泥臭いもの。自分がその主人公になってしまったことが、恨めしい。
気晴らしになるものは何もなく、一日がひどく長く感じられる。
部屋に入ってくるのは松永だけで、まるでこの世に人類は俺と松永しかいないようだ。時折聞こえる他の患者の叫び声が、かろうじて他者の存在を思い出させるが、たいした慰めにはならない。慰めどころか、狂人の悲鳴なんて気が滅入るばかりだ。
無論、病気は良くならない。手当らしいものもない。薬もない。日に日に頭痛がひどくなっていく。
俺が頭痛を訴えても、松永は冷笑するだけだ。こいつは、医者としての良心すらないのだろうか。
「僕だって痛いと言った。でも君は笑うだけだった」
松永が言う。ああ、なんてことだ、こいつは復讐の塊になっている……。
「一体、どうすればおまえ気が済むんだよ」
俺はやけ気味に怒鳴った。それだけで、頭痛に響く。松永は寂しそうな顔をした。
だから何なんだよ、その顔は。こいつは前も、いじめられた中学生に戻ったみたいな表情をしたことがあった。なんで松永が辛そうな顔をするのか。辛いのは俺だ。
松永は何を求めているのだろう? 彼が求めるものを俺が出せば、彼は満足し、復讐をやめるのだろうか?
「ウウウゥウウウウ」
他の患者が呻いている声が、不気味に響いた。
「うるさい、気違い!」
俺は叫んだ。あんな連中と同じ病棟にいると、自分までが気違いの仲間にされたような気がする。松永はため息をついた。
「津村くん。君はまったく、中学の頃と変わってないんだね」
それはおまえだろう。俺は松永を睨んだ。
「君は、昔からそうだった……。弱い者へのいたわりなんか、微塵もない人だった……。どうして君はそうなんだろうね? 君はここの患者たちを気違いと蔑むけれど、今は君も病人なんだよ。どうしてそのことが分からないんだろう」
何なんだ。なんで松永に説教されなきゃならないんだ。俺は不条理を感じた。
頭痛。吐き気。熱。体力がどんどん落ちていくようだ。松永はいつまで、俺を縛るつもりなのだろう。最終的には、どうする気なんだ?
この弱り切った体では、逃げることはもう、ちょっと出来そうにない。松永をはり倒すのも無理だろう。
ああ、なんていうことだろう。健康が取り柄であったのに、このような状態になってしまうとは。自分の体が、信じられない。俺はいつから、こんな軟弱になってしまったのか。
病人なんかキライなのに、自分が病人になってしまうとは。それだけでも打ちのめされるというのに、松永の復讐まで受けねばならないなんて。
美佳には見捨てられるし、ひどいことだ。
神様助けてくださいなどと、柄にもなく神仏にでもすがりたくなる。神頼みをするなんて、弱い奴がやることだと思っていたのに。
なんだか体だけでなく、心までどんどん弱っていくようで嫌だ。
しっかりしろ、津村孝介。おまえは西崎なんかとは違うだろう? ここの気違い患者どもとも違うだろう?
俺は自分を叱咤した。元気だった頃の自分を思い返した。そうでもしていないと、本当におかしくなってしまいそうだった。
松永がやって来た。俺はため息をつきそうになるのを堪えた。弱みを見せてはいけないように思った。もう、頭痛を訴えることもしない。泣き言なんか言うものか。病気が進めば進むだけ、俺は心だけでも強くあろうと思った。
松永はベッドの側まで来ると、俺の枷を外した。どうしたんだろう? 俺が不審に松永を見ると、奴は尊大に言った。
「歩くんだ」
命令しやがって。俺はそっぽを向いてやった。
すると、体に電流が走った。
驚いて振り返ると、なんと松永の手にはスタンガンがあった。
俺は声もなく、目を剥いて松永を見た。こいつ、本当に医者か? これが医者のやることか?
だんだん、松永の復讐はエスカレートしてきている。
「歩け」
松永は繰り返した。俺は迷った。意地を通して、また電流を食らうか、悔しいのを我慢して歩くか。
俺がじっとしていると、松永がまたスタンガンを押しつけてきたので、奴が電流を流す前に、俺は立ち上がった。
畜生……あんなもん出されたら、どうしようもない。病身のうえに、電流なんか度々食らっては、かなわない。
「歩くって、どうすりゃいいんだよ」
俺が口を尖らせると、松永はベッドの周りをくるくると指で描いた。部屋の中をぐるぐる回れということらしい。
「馬鹿らしい……」
思わず吐き捨てる。
「何を言うの。君は僕に……」
「あーあーあーあー。分かってるよ! これも、俺が昔おまえにやらせたというんだろ!」
俺はうんざりして叫んだ。
松永は、昔の仕打ちを、忠実に返すのだ。なんと陰湿な律儀者であろう。くそったれ。
忌々しいが、奴の言うとおりにしなければ、スタンガンが待っている。冗談じゃないぞ。頭が痛くて熱もあるっていうのに、そのうえ電流まで食らってたまるかい。
俺は腹立ちと馬鹿らしさを押さえながら、部屋の中を熊のように歩いた。部屋を一周し、俺は立ち止まった。
「誰が止まって良いと言ったの」
松永がスタンガンを構えながら不服そうに言う。俺は松永を睨み、また歩き出した。
松永が良いと言うまで、俺は馬鹿のように部屋の中を回っていなければならないようだ。余人が見たら、狂人が回っていると思うだろう。
くそう……。
もう、三十分ほども歩いただろうか。部屋を何周したのかも、もう分からない。馬鹿馬鹿しさよりも、疲れが先立ってきた。この程度で疲れちまうなんて、体力が相当落ちているようだ。
俺は立ち止まり、息をついた。
電撃が走った。
「止まるな」
松永が鬼軍曹のように言う。俺は痛みと驚きに目を見張った。いつまで歩かせる気なんだ、こいつ。
畜生。
俺は再び歩き出した。歩きながら、思い出す。西崎を、延々走らせたことを。俺はあいつに、トラックを何周も走らせた。虚弱なあいつはすぐに息が上がって、立ち止まった。その度、俺は奴の尻を蹴り上げて、走らせた……。
もう、何回部屋を回っただろう。目が回りそうになる。くたくただ。たまらず膝をつくと、またスタンガンを押しつけられた。倒れそうになった。俺は踏ん張った。
「こ、の、や、ろ、う……」
怒りがわく。飛びかかって首を締め上げてやりたいが、その体力がない。
「三つ数えるうちに、歩き出すんだ。でないとまた電流だよ。いち、に、さん……」
俺は電流を食らう前に、何とか歩き出した。立ち上がると、目眩がした。
病気と、疲れと、何度も電流を食らったせいで、俺は幾らも行かないうちに、壁に体をついた。痛みが走る。また電撃を食らったらしい。俺はずり落ちるようにうずくまった。
「歩けよ」
遠くから松永が命令するが、もう動けない。電撃でも何でも、好きにしやがれ……。
体に衝撃が走り、何も分からなくなった……。