表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/52

贖罪8

第8節


 美佳のことが、心配で気になって仕方がない。あの蛇じみた気違いの魔手が美佳に伸びているかと思うと、胸を掻きむしりたくなる。

 いくら美佳が元気が良いといっても、所詮女。男の力で押さえ込まれたら、為す術がない。

 ああ、美佳。美佳。

 でも俺にはどうすることも出来ない。

 扉には鍵。窓には格子。

 畜生……。

 すぐにでも病室をぶち破って、美佳の元に駆けつけたい。松永は、何をするか分からない。あいつはすでにもう、立派な犯罪者だ。

 俺を不法に閉じこめているように、美佳にもとんでもないことをしでかすかもしれない。あいつならやりかねないのだ。常識も何もない男なのだから。

 松永が入ってきた。

「美佳は? 美佳は無事なんだろうな!」

 俺は松永に噛みついた。松永は素知らぬ顔で、ゲロ飯を拵えている。

「彼女が大事?」

 松永が訊く。当たり前だ。

「松永。おまえが憎いのは、俺だろう。関係ない美佳まで巻き込むな」

 松永は薄笑いを浮かべ、トレーを床に置いた。犬食いしろということだろう。

 ここで奴に逆らえば、美佳が危ないのかもしれない。俺は腸の煮えを押さえ、犬食いをしてやった。

「満足か?」

 顔中にゲロ飯を滴らせ、俺は松永を見やった。松永は俺を冷たく見下ろしていた。

「君は僕の大事な物、奪ったり壊したりしたよね……。僕が苦心して作ったプラモデルを、目の前で踏みつぶしたり、本を買うためにコツコツ貯めていた小遣いを取ったり……本当に、涙が出るほど辛かった」

 低い声で呟く。そういえばそんなこともした。けれど、子供のオモチャだろ? 子供の小遣いだろ? それを奪われたことが、そんなに辛いことか?

 思い出してだんだん興奮してきたらしく、松永は拳を握って震えていた。

「津村。おまえも、大切なものを奪われる辛さを知ればいいんだ」


 松永は、本当に、もうどうしようもない異常者だ。

 あいつは、プラモデルと美佳を一緒にしてやがる。普通じゃない。

 どうにかして、ここを脱出しなくては。美佳が危ない。

 俺は何度も扉に体当たりしてみた。体が痛くなっただけで、扉はびくともしない。ぶち破るのは無理なようだ。

 俺は扉の脇に立ち、松永が訪れるのを今か今かと待ちかまえていた。

 扉が開いた。

 俺は松永を力一杯突き飛ばした。松永は転倒し、トレーに載った食べ物が散った。

 俺は構わず、駆け出した。

 松永が追ってくる。

 捕まってたまるか!

 廊下の患者らが邪魔だった。どけ! この薄らボンヤリの気違いどもが! 俺は患者らを突き飛ばし、走った。

 サイレンが鳴り響いた。

 警備員のような男たちが、ばらばらと現れた。やばい。

「津村が逃げた! 捕まえろ!」

 松永が叫ぶ。男たちが俺に飛びかかってきた。俺は病身で、相手は複数。どうしようもない。俺は男たちに組み敷かれた。

 サイレンが止まった。松永が近づいてきた。

「病室へ」

 松永の命令を受け、男たちは俺を病室に引き立てていった。

「離せ! 離せ!」

 喚くが、俺に注意を向ける者は誰もいなかった。余人には、精神病の患者が喚いているように見えるのだろう。俺はたしかに頭の病気だが、精神病じゃないんだ! 心で叫ぶが、誰も分かってくれない。

 俺は枷をかけられ、ベッドに縛られてしまった……。


 美佳は、俺の有様を見て、目を丸くした。無理もない。まるで囚人のように枷をはめられているのだから。

「美佳……」

 俺は美佳に声をかけた。縛めを解くことはできない。美佳の元に駆け寄ることができないのが、もどかしかった。

 美佳が、近寄ってきた。

「大丈夫か? 松永に、何もされてないか?」

 この一週間、それだけが気がかりだった。美佳の瞳が揺らめき、潤んだ。

「何かあったのか?」

 美佳の涙に、俺は打ちのめされそうになった。松永め、やはり美佳に……。

「松永。あいつ、殺してやる」

 本気で、殺意が芽生えた。

 すると、美佳は俺を抱きしめた。俺は戸惑った。

「大丈夫……私は、大丈夫だから……」

 美佳の涙が、俺の頬に落ちる。暖かい。真珠みたいに綺麗だった。でも、彼女がこんなにしおらしいのは初めてだ。松永に手込めにされたからだろうか。怒りと同時に、切なさが胸を締めた。

「美佳……守れなくて、ごめん……」

 自分が、不甲斐なくてたまらない。美佳は首を振った。

「松永先生と私は、何もないわ……何もないの……。西崎少年だって……。ああ、孝介。孝介」

 窒息しそうなほど、抱きしめる。

「美佳?」

 俺は美佳の顔を覗き込んだ。前々から思っていたけれど、やはり美佳の様子は変だ。

「美佳。松永とは……」

「孝介、松永先生のことは、もう考えないで。西崎くんのことも。私のことだけ考えて」

 そう言って、俺の目をじっと見つめる。真摯な表情。

 どうも美佳の物言いは妙だし、引っかかる点はあるけれど、一つはっきりしたことがあった。

 彼女は俺を心配してくれている。

 そして俺を愛してくれている。

 不思議と安堵が広がった。

 松永がどんな卑劣な真似をしようとも、俺と美佳の仲を裂くことなど出来ないのだ。人間は、踏めば壊れるプラモデルとは違う。

「そろそろ、面会時間は終了です」

 松永が部屋に入り、ぶっきらぼうな口調で言った。俺は松永に対して、少しばかり優越感を持った。松永は俺を閉じこめ、いい気になっているようだが、何もかも奴の思い通りにはならないのだ。

 美佳が帰った後、松永は面白くないような顔をしていた。美佳が自分になびかず、俺を変わらず愛していることが、気に入らないのだろう。

「美佳のことは、諦めるんだな。おまえが俺から奪えるものなんて、何もありゃしないんだ」

 俺が松永にそう言ってやると、松永は凄い目で俺を睨んだ。


 今日の食事は、まともだった。松永はまぜこぜにせず、普通の状態で食事を差し出した。美佳のことが余程こたえたのかもしれない。いい気味だ。

 俺は久しぶりのまともな食事に舌鼓をうった。ゲロ飯だと残してしまうが、今回の食事は全部平らげた。病院食だから美味いとはいえなかったが、ゲロ飯よりずっと良い。

 松永は、俺が食事を平らげるのを、じっと眺めていた……。


 おかしい。

 どうも体がおかしい。いや、不調は前々からなのだが、もとからの病気に加わって、さらに妙な具合だ。体の芯が、熱い。

 蛍光灯が眩しい。

 俺は、灯りの元、一人悶えていた。病気の苦しみではない。俺は前を腫らしながら、ベッドでもんどり打っていたのである。

 そう……なんと俺は、欲情していたのだ。

 どう考えても異常だった。

 俺は病人でここは病室で俺は一人で、色気の欠片もないというのに、なんでこんな狂おしい気持ちになるのか。いくら若いから、美佳にあまり逢えないからといっても、変だ。

 とにかく、相手もおらず、体が弱っているうえにこんな妙な具合では、苦しいばかりだ。

 これはもう出してしまわないと、たまったものではない。俺は立て続けに放出した。

 と。

 いきなり、眩しかった蛍光灯の灯りが落ちた。

 代わりに、壁にかけてあった鏡が、輝いた。自然、俺は鏡のほうに目をやった。

 途端、驚愕に固まった。

 それは鏡ではなく、窓のようになってしまっていた。

 隣室の様子が見える。

 つまりそれはマジックミラーになっていたのだ。精神病院の病室なら、患者を見張るためにそのような覗き鏡があったとしても、不思議ではない。

 だが俺が何よりも驚いたのは、そんな覗き鏡の存在自体ではなく、部屋の灯りが落ちたことで見えるようになった向こう側の部屋に、美佳の青ざめた顔があったからだ。

 なぜ美佳が、どうなっているのだなどと疑問に思う余裕すらなかった。

 彼女は、俺の自慰の様子を覗き鏡から見ていたに違いない。

 いくら恋人とはいえ、こんな浅ましい姿まで晒したことはない。

 羞恥で、全身の血が煮えそうになった。

 美佳は、じりじりと後じさりをし、よろめき、覗き鏡から見えなくなった。

 扉が開く音と、誰かが駆け出していく足音が聞こえた。

 美佳が隣室から飛び出し、走っていったのだろう。

 ……。

 俺はあまりの出来事に頭が真っ白になり、呆然となっていた。

 覗き鏡越しに、隣室にもう一人いるのが見えた。

 松永克巳が、残酷な笑みを浮かべて、鏡越しに俺を見ていた……。


「催淫剤はよく効いたようだね」

 松永が、面白がるように言うのが、どこか遠くから聞こえてくる。久しぶりのまともな食事、あれには妙な薬が混じっていたのだ……。

「彼女は完全に君に失望して、もう来なくなるだろう。若い女性が、あんな場面の男を見るのは、衝撃だからね」

 楽しそうに言う。見上げると、いつの間にか松永が病室に入ってきていた。

「おまえ、変態だよ……」

 俺は打ちひしがれながら松永に言った。俺に催淫剤を盛って悶える様を、美佳に見せるなんて。そんな滅茶苦茶をするなんて。松永は昔受けた仕打ちを返すというが、俺はこんなひどいことはしなかったぞ。

「したじゃないか。クラスの女子の前で僕を裸に剥いて、笑い者にしたじゃないか。ねえ、その女子たちの中には、僕の初恋の人もいたんだよ……。思春期の少年が、異性に裸を、それも好きな子に素っ裸を見られるなんて、どれほどの恥辱、辱めであったか、君に分かるかなあ……」

 頭痛の隅で、西崎を裸にして磔にした記憶が過ぎった……。


 松永が言った通り、美佳は見舞いに来なくなった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ