贖罪8
第8節
美佳のことが、心配で気になって仕方がない。あの蛇じみた気違いの魔手が美佳に伸びているかと思うと、胸を掻きむしりたくなる。
いくら美佳が元気が良いといっても、所詮女。男の力で押さえ込まれたら、為す術がない。
ああ、美佳。美佳。
でも俺にはどうすることも出来ない。
扉には鍵。窓には格子。
畜生……。
すぐにでも病室をぶち破って、美佳の元に駆けつけたい。松永は、何をするか分からない。あいつはすでにもう、立派な犯罪者だ。
俺を不法に閉じこめているように、美佳にもとんでもないことをしでかすかもしれない。あいつならやりかねないのだ。常識も何もない男なのだから。
松永が入ってきた。
「美佳は? 美佳は無事なんだろうな!」
俺は松永に噛みついた。松永は素知らぬ顔で、ゲロ飯を拵えている。
「彼女が大事?」
松永が訊く。当たり前だ。
「松永。おまえが憎いのは、俺だろう。関係ない美佳まで巻き込むな」
松永は薄笑いを浮かべ、トレーを床に置いた。犬食いしろということだろう。
ここで奴に逆らえば、美佳が危ないのかもしれない。俺は腸の煮えを押さえ、犬食いをしてやった。
「満足か?」
顔中にゲロ飯を滴らせ、俺は松永を見やった。松永は俺を冷たく見下ろしていた。
「君は僕の大事な物、奪ったり壊したりしたよね……。僕が苦心して作ったプラモデルを、目の前で踏みつぶしたり、本を買うためにコツコツ貯めていた小遣いを取ったり……本当に、涙が出るほど辛かった」
低い声で呟く。そういえばそんなこともした。けれど、子供のオモチャだろ? 子供の小遣いだろ? それを奪われたことが、そんなに辛いことか?
思い出してだんだん興奮してきたらしく、松永は拳を握って震えていた。
「津村。おまえも、大切なものを奪われる辛さを知ればいいんだ」
松永は、本当に、もうどうしようもない異常者だ。
あいつは、プラモデルと美佳を一緒にしてやがる。普通じゃない。
どうにかして、ここを脱出しなくては。美佳が危ない。
俺は何度も扉に体当たりしてみた。体が痛くなっただけで、扉はびくともしない。ぶち破るのは無理なようだ。
俺は扉の脇に立ち、松永が訪れるのを今か今かと待ちかまえていた。
扉が開いた。
俺は松永を力一杯突き飛ばした。松永は転倒し、トレーに載った食べ物が散った。
俺は構わず、駆け出した。
松永が追ってくる。
捕まってたまるか!
廊下の患者らが邪魔だった。どけ! この薄らボンヤリの気違いどもが! 俺は患者らを突き飛ばし、走った。
サイレンが鳴り響いた。
警備員のような男たちが、ばらばらと現れた。やばい。
「津村が逃げた! 捕まえろ!」
松永が叫ぶ。男たちが俺に飛びかかってきた。俺は病身で、相手は複数。どうしようもない。俺は男たちに組み敷かれた。
サイレンが止まった。松永が近づいてきた。
「病室へ」
松永の命令を受け、男たちは俺を病室に引き立てていった。
「離せ! 離せ!」
喚くが、俺に注意を向ける者は誰もいなかった。余人には、精神病の患者が喚いているように見えるのだろう。俺はたしかに頭の病気だが、精神病じゃないんだ! 心で叫ぶが、誰も分かってくれない。
俺は枷をかけられ、ベッドに縛られてしまった……。
美佳は、俺の有様を見て、目を丸くした。無理もない。まるで囚人のように枷をはめられているのだから。
「美佳……」
俺は美佳に声をかけた。縛めを解くことはできない。美佳の元に駆け寄ることができないのが、もどかしかった。
美佳が、近寄ってきた。
「大丈夫か? 松永に、何もされてないか?」
この一週間、それだけが気がかりだった。美佳の瞳が揺らめき、潤んだ。
「何かあったのか?」
美佳の涙に、俺は打ちのめされそうになった。松永め、やはり美佳に……。
「松永。あいつ、殺してやる」
本気で、殺意が芽生えた。
すると、美佳は俺を抱きしめた。俺は戸惑った。
「大丈夫……私は、大丈夫だから……」
美佳の涙が、俺の頬に落ちる。暖かい。真珠みたいに綺麗だった。でも、彼女がこんなにしおらしいのは初めてだ。松永に手込めにされたからだろうか。怒りと同時に、切なさが胸を締めた。
「美佳……守れなくて、ごめん……」
自分が、不甲斐なくてたまらない。美佳は首を振った。
「松永先生と私は、何もないわ……何もないの……。西崎少年だって……。ああ、孝介。孝介」
窒息しそうなほど、抱きしめる。
「美佳?」
俺は美佳の顔を覗き込んだ。前々から思っていたけれど、やはり美佳の様子は変だ。
「美佳。松永とは……」
「孝介、松永先生のことは、もう考えないで。西崎くんのことも。私のことだけ考えて」
そう言って、俺の目をじっと見つめる。真摯な表情。
どうも美佳の物言いは妙だし、引っかかる点はあるけれど、一つはっきりしたことがあった。
彼女は俺を心配してくれている。
そして俺を愛してくれている。
不思議と安堵が広がった。
松永がどんな卑劣な真似をしようとも、俺と美佳の仲を裂くことなど出来ないのだ。人間は、踏めば壊れるプラモデルとは違う。
「そろそろ、面会時間は終了です」
松永が部屋に入り、ぶっきらぼうな口調で言った。俺は松永に対して、少しばかり優越感を持った。松永は俺を閉じこめ、いい気になっているようだが、何もかも奴の思い通りにはならないのだ。
美佳が帰った後、松永は面白くないような顔をしていた。美佳が自分になびかず、俺を変わらず愛していることが、気に入らないのだろう。
「美佳のことは、諦めるんだな。おまえが俺から奪えるものなんて、何もありゃしないんだ」
俺が松永にそう言ってやると、松永は凄い目で俺を睨んだ。
今日の食事は、まともだった。松永はまぜこぜにせず、普通の状態で食事を差し出した。美佳のことが余程こたえたのかもしれない。いい気味だ。
俺は久しぶりのまともな食事に舌鼓をうった。ゲロ飯だと残してしまうが、今回の食事は全部平らげた。病院食だから美味いとはいえなかったが、ゲロ飯よりずっと良い。
松永は、俺が食事を平らげるのを、じっと眺めていた……。
おかしい。
どうも体がおかしい。いや、不調は前々からなのだが、もとからの病気に加わって、さらに妙な具合だ。体の芯が、熱い。
蛍光灯が眩しい。
俺は、灯りの元、一人悶えていた。病気の苦しみではない。俺は前を腫らしながら、ベッドでもんどり打っていたのである。
そう……なんと俺は、欲情していたのだ。
どう考えても異常だった。
俺は病人でここは病室で俺は一人で、色気の欠片もないというのに、なんでこんな狂おしい気持ちになるのか。いくら若いから、美佳にあまり逢えないからといっても、変だ。
とにかく、相手もおらず、体が弱っているうえにこんな妙な具合では、苦しいばかりだ。
これはもう出してしまわないと、たまったものではない。俺は立て続けに放出した。
と。
いきなり、眩しかった蛍光灯の灯りが落ちた。
代わりに、壁にかけてあった鏡が、輝いた。自然、俺は鏡のほうに目をやった。
途端、驚愕に固まった。
それは鏡ではなく、窓のようになってしまっていた。
隣室の様子が見える。
つまりそれはマジックミラーになっていたのだ。精神病院の病室なら、患者を見張るためにそのような覗き鏡があったとしても、不思議ではない。
だが俺が何よりも驚いたのは、そんな覗き鏡の存在自体ではなく、部屋の灯りが落ちたことで見えるようになった向こう側の部屋に、美佳の青ざめた顔があったからだ。
なぜ美佳が、どうなっているのだなどと疑問に思う余裕すらなかった。
彼女は、俺の自慰の様子を覗き鏡から見ていたに違いない。
いくら恋人とはいえ、こんな浅ましい姿まで晒したことはない。
羞恥で、全身の血が煮えそうになった。
美佳は、じりじりと後じさりをし、よろめき、覗き鏡から見えなくなった。
扉が開く音と、誰かが駆け出していく足音が聞こえた。
美佳が隣室から飛び出し、走っていったのだろう。
……。
俺はあまりの出来事に頭が真っ白になり、呆然となっていた。
覗き鏡越しに、隣室にもう一人いるのが見えた。
松永克巳が、残酷な笑みを浮かべて、鏡越しに俺を見ていた……。
「催淫剤はよく効いたようだね」
松永が、面白がるように言うのが、どこか遠くから聞こえてくる。久しぶりのまともな食事、あれには妙な薬が混じっていたのだ……。
「彼女は完全に君に失望して、もう来なくなるだろう。若い女性が、あんな場面の男を見るのは、衝撃だからね」
楽しそうに言う。見上げると、いつの間にか松永が病室に入ってきていた。
「おまえ、変態だよ……」
俺は打ちひしがれながら松永に言った。俺に催淫剤を盛って悶える様を、美佳に見せるなんて。そんな滅茶苦茶をするなんて。松永は昔受けた仕打ちを返すというが、俺はこんなひどいことはしなかったぞ。
「したじゃないか。クラスの女子の前で僕を裸に剥いて、笑い者にしたじゃないか。ねえ、その女子たちの中には、僕の初恋の人もいたんだよ……。思春期の少年が、異性に裸を、それも好きな子に素っ裸を見られるなんて、どれほどの恥辱、辱めであったか、君に分かるかなあ……」
頭痛の隅で、西崎を裸にして磔にした記憶が過ぎった……。
松永が言った通り、美佳は見舞いに来なくなった。