贖罪7
第7節
やはり松永は、さらなる復讐をしてきた。
松永はゲロ飯を床に置き、トレーを足で踏んづけた。何の真似だ? 俺が訝しく見上げると、松永はとんでもないことを言い出した。
「犬食いするんだ」
なんだと? 俺は怒るよりも呆れて、松永を見返した。松永はニヤニヤ笑っているが、目は完全に本気だった。
イカれてる。
「ふざけるな。足をどけろ」
松永はびくとも動かない。くそったれ、誰が犬食いなんかするか。俺はゲロ飯に手をつけなかった。
「なんで出来ないの。僕にはさせたじゃないか。他人にはさせても、自分は出来ないっていうの。そんなの、勝手だよ。他人にさせたことは、自分もやらなくちゃ」
松永が不満そうに言う。こいつは本当に、一々よく覚えているな。
「ガキの頃の話だろ!」
そんな昔のことなんて、とっくに時効ではないか。いつまでも根に持ちやがって。
「君はまったく、少しも反省してないんだね」
松永はため息をついた。
「自分がどれだけひどいことをしたか、分かってないんだ……。君は、他人の痛みが分からない人なんだ。それどころか、他人の痛みを面白がって……悪魔みたいな人だ」
何言ってるんだ。こんな気違い医者に責められる謂われはないぞ。
「津村くん。君は、痛みを知る必要があるよ。僕が受けた苦しみがどんなものだったか、思い知らなくちゃいけないよ」
冗談じゃないぞ。こいつ、自分の非常識な行いを、正当化するつもりか? 俺は慄然と松永を見返した。松永も俺を見ていた。奴の目は、少し潤んでいた。
いじめられっ子の中学生の目だった。
なんでそんな目で俺を見る?
泣きたいのはこっちだ。気違い病院で、陰湿な気狂い医者に、ガキの頃の復讐をされるなんて。滅茶苦茶だ。
早く、早く土曜にならないか。
美佳。助けてくれ……。
「美佳。聞いてくれ。あいつは、松永は気違いなんだ」
待ちに待った土曜。俺は開口一番、美佳に訴えた。
「松永は俺を閉じこめて、復讐してやがるんだ」
「孝介……」
美佳は、悲しそうに長い睫を伏せた。どうしたのだろう。
「どうして、松永先生を悪く言うの? 先生の言うことをちゃんときいて、病気を治してよ……」
哀願するように言う。心配してくれているのだろうが、美佳は、松永の表面の穏やかさに騙されているようだった。美佳は知らないだろうが、あいつはとんでもない医者なのだ。
「松永は、俺の中学時代の同級生だったんだよ」
俺は松永の正体を打ち明けた。美佳が眉間を寄せた。俺は続けた。
「俺はあいつを虐めていた。でも、子供の頃の話だ。それなのにあいつは延々根に持っていて、俺が患者として入院してきたのを幸い、復讐しているんだ。病室に監禁して、ひどい飯を食わせて」
「……」
「本当なんだよ! こんな非常識なこと、信じられないかもしれないけれど、でも、本当なんだ」
俺は必死に美佳を説得した。松永の非道、彼が西崎克巳という弱虫のいじめられっ子であったことを話した。美佳は細い眉を寄せながら、じっと俺の話を聞いていた。
「美佳。ここから俺を出してくれ。松永の非道を、訴えてくれ。ここは、滅茶苦茶なんだ」
俺が美佳に取りすがろうとすると、美佳は怯えたように後じさった。
「美佳?」
不審に声をかけると、美佳は取り繕うように笑顔を作った。
「……その西崎少年が、成長して医者になって、あなたに仕返ししているというのね?」
俺は頷いた。
「滅茶苦茶ね……」
「そうだろう。狂ってるとしか、思えないよ。早くこんな病院から逃げ出さないと」
「孝介……」
美佳が潤んだ目をした。俺の境遇に驚いているのだろうか。
「美佳。助けてくれ。俺を出してくれ」
俺は美佳にすがった。今の俺には、彼女しか助けがない。だが、美佳は途方に暮れたようだった。どうしたんだ。いつもの美佳なら、いきり立ってろくでなし医者を糾弾してくれるだろうに。
「ねえ、孝介。落ち着いて。あなたの話は分かったけれど、すぐに病院を抜け出すなんて、無理よ」
「どうして!」
美佳が俺を連れ出してくれれば、こんな所すぐにでも出られるのに。美佳は諭すように言った。
「考えてみて。あなたは精神病院の患者として、閉じこめられているのよ。そんなあなたの話を信じる人なんて、私くらいしかいないわ。それに、勝手にあなたを連れ出そうとしたら、松永病院の邪魔だてがあるわよ。門にはガードマンが見張っているし」
そうかもしれない。しかし、このまま松永の復讐に甘んじているわけにはいかない。
「とりあえず、大人しくしていて。大丈夫、きっと何とかするから」
美佳が、励ますように言った。
美佳が出ていくと、入れ違いに松永が入ってきた。彼女が出ていくのを待ちかまえていたみたいだ。聞き耳をたてていたのかもしれない。俺は改めて不愉快になった。
「彼女、美人だね」
松永が唇を嘗めながら言った。は虫類を思わせた。
「何だ? 美佳がどうかしたか」
松永が美佳に興味を示したことが、おぞましかった。
「君の彼女を、僕のものにしてしまおうかな」
唇を嘗めながら言う松永に、全身が粟立ちそうになった。
「なんだと!」
この気違い医者が、俺の美佳に手を出すというのか?
「貴様、美佳に何かしたら、許さないからな!」
俺が松永に飛びかかると、松永は俺の手を払った。
「許さない? 何を言ってるのさ。許す許さないは、僕が決めることだ」