贖罪6
第6節
なんて事だ……。
松永は、俺の病室に鍵をかけやがった。普通、鍵は部屋の中からなら開けるものだが、ここは精神病院だけあって、中からは開かないようになっている。
窓には、格子がある。
逃げられない。
これじゃ、監禁だ。
松永は、俺が奴の正体に気づいたのを機に、俺が逃げられないようにしたのだ。俺は、軽率に奴の正体を暴いたことを後悔した。けれどもう遅い。
無論、頭痛は治らない。きっとあの医者は、治療なんかしていないのだろう。手術だって、本当に成功だったか、怪しいものだ。麻酔をかけただけで、手術なんかしていなかったのかもしれない。
そもそも、俺の病気が松永の診断通りなのかどうかも、疑わしい。あいつは適当な病名をでっち上げただけかもしれない。
とんでもないことになっちまったぞ。
ろくな治療もされずに、閉じこめられてしまったなんて。
病室に、電話なんかあるはずもない。叫んでも、ここは精神病院。狂人の奇声と思われるのが落ちだ。いや、ここは奥地にある病院だから、俺の叫びを聞いてくれる人がいるかどうか。
松永は、俺をどうするつもりなのだろう。じっくりいたぶる気なのだろうか。
とんでもない病院に来てしまった。松永は、一介の医師ではない。あいつは院長の息子なのだ。この病院のボスみたいなものだ。その気になれば、病院内でなら、何でもできる。
俺は、復讐鬼が支配する白い檻に捕まってしまったのだ。
こんな非常識なことが、自分の身に降りかかるとは。嘘のようだ、夢だと思いたいが、現実なのだ。
美佳が来るのが待ち遠しい。今の俺にとって、彼女だけが救いの女神。
美佳。美佳。早く来てくれ。
扉が開いた。
美佳!
……松永だった。
松永は、食事の載ったトレーを手に持っていた。こういう仕事は普通看護婦がやるのだろうが、奴は俺の世話を自分以外の者に任せたくないらしい。
料理は、綺麗に盛りつけてあった。食事くらいしか楽しみがないので、病院食であっても美味そうに見えた。
俺が喉を鳴らすと、松永はニヤリと笑った。そして信じられないことをした。
なんと奴は、みそ汁やらサラダやらおかずやら飯やら、全部混ぜやがったのだ。綺麗に盛りつけてあった料理は、あっと言う間にゲロのようになってしまった。
俺が呆気に取られていると、松永は微笑んでゲロ飯を俺に差し出した。
これを食えというのか?
「こんなもん食えるかよ」
俺はトレーを突き返した。すると松永は涼しい顔で言った。
「僕は食べたよ。君は僕の弁当をまぜこぜにして牛乳までかけて、僕に食べさせたじゃないか」
忘れていた記憶が蘇る。そういや、中学の頃、西崎の弁当をグチャグチャにして、彼に食わせたことがあった。あいつは、泣きながら食べてたな……。
俺は松永を見返した。
こいつ、そんな細かいことまで、覚えているのか。
松永の陰湿な記憶力に、俺は驚いた。
もしかして彼は、昔受けた仕打ちを一々すべて、俺に返すつもりなのだろうか。
なんて陰険な奴だ。ガキの時も陰気くさかったが、大人になってそれに磨きがかかったみたいだ。信じられない。子供時代のいじめを、大人になってからやり返すなんて。しかも、医者という立場を利用して。
だが俺は、弱虫だった西崎とは違う。松永は再びトレーを押しつけてきたが、俺はそっぽを向いた。
「食べないなら、それでもいいさ。君が、ひもじい思いをするだけだ」
松永はトレーを下げた。松永は出ていったが、新しいまともな飯が来る気配はない。
腹減った……。
でも、あんなゲロ飯なんか、誰が食うものか。
西崎は弱虫毛虫だったから、凄まれると大人しく食ったが、俺は食わん。
ああ、早く早く、美佳が来てくれないか。
美佳、遅いな。
そういえば、今日は何曜日だっけ? 病室には、カレンダーも時計もない。今日はもしかして平日だろうか。だとしたら、彼女は仕事だ。見舞いなんか来られないかもしれない。
昨日は、美佳が来た。彼女が手紙を届けてくれたおかげで、俺は松永の正体が分かったのだ。すると昨日は日曜日で、今日は月曜?
月曜だと?
彼女の次の休日まで、今日を含めてたっぷり五日……。
目眩がした。
五日間は、誰の助けもないということか。それまで俺は、囚人なのか。
俺には家族がいないし、精神病院なんかに入院しているせいか、見舞いに来る友人もない。来てくれるのは、美佳だけだ。
それなのに、彼女が次に来るまで当分あるなんて。
なんてことだ……。
五日間も、閉じこめられるなんて。
空腹が、よりひどく感じられた。
……おい。どうなってるんだよ。
俺は、窓から差し込む西日を眺め、焦燥していた。
美佳が来ないのは仕方ないとして、松永も来ない。
別に松永なんか来なくてもいいのだが、俺はもう二日、何も食ってない。松永が、食事を運んで来ないのだ。
誰も来ない二日間。
空腹を通り越して、胃が痺れるようだ。
松永め、俺のことを忘れているのか?
この二日間、俺は何度か部屋から抜け出そうと試みたが、どうやっても扉は開かなかった。窓はがっちりした鉄格子で、格子の間隔は五センチおきくらい、どれだけダイエットしたって、とても通り抜けられない。
ここは本当に、牢獄なんだ。
狂人を閉じこめる檻。でも狂っているのは、松永だ。正常な人間が閉じこめられて、あの狂人が自由だなんて。
なんという理不尽。
俺はもう動く元気もなく、ベッドに横たわっていた。
空腹と乾きで、苦しい。頭痛もひどくなった。熱があるみたいだ。
なんでこんな目に?
松永。あの気違い医者め。閉じこめて、二日も放ったらかしにして。
ここを出たら、訴えてやるからな。
松永が食事を手に入ってきた。久しぶりのご登場だ。この野郎! 俺は松永に飛びかかった。
松永は軽く俺をいなした。俺は驚いてしまった。あの弱虫西崎が、俺をいなすなんて。
俺は病気のうえに飢えさせられ、体力が無くなっていたのだった。
「痩せたみたいだね」
松永が言う。当たり前だ。誰のせいで痩せたと思う。俺が歯ぎしりしていると、奴は再び、ゲロ飯を拵えやがった! 俺は目を丸くした。
「はい」
微笑んで、ゲロ飯を突き出す。
こいつ……。松永の執拗さに、俺は怒りと同時に気味の悪さを覚えた。しつっこい野郎だ。蛇みたいだ。
奴はどうしても、ゲロ飯を食わせたいらしい。なんて奴だ。
もう二日も絶食している。こんなゲロ飯でも、何か食べないとやばい。畜生。
俺は松永を睨んだ。松永は、俺のひもじさを楽しむように、微笑んでいる。この野郎。
「食べないの? 下げちゃうよ」
松永はトレーを引っ込める仕草をした。
「待て!」
俺は慌てて奴の白衣を掴んだ。ここで引っ込められたら、次はいつ飯が来るか分からない。また二日も断食させられてはかなわない。
俺がすがると、松永は満足そうにトレーを戻した。
こんチクショウが……。
こいつは本気で、復讐する気なんだ。子供時代のいじめを、十二年も経ってからやり返すなんて。いい年して。信じられない。
俺は思い切って、ゲロ飯を口に含んだ。空腹と乾きで、味を感じるゆとりがないのが幸いだった。悔しさで、味なんか分からない。俺は鼻をつまんで、ゲロ飯を流し込んだ。松永は俺の様子を楽しそうに見ていた。
「こんなこと許されると思っているのか」
俺が吠えるように抗議しても、松永は涼しい顔をしていた。
「僕が受けた仕打ちは、まだまだこんなものじゃないよ」
松永が目を細めて言った。楽しそうだ。こいつ、まだ足りないというのか? 俺は呆気にとられた。
松永は空のトレーを下げていった。
一人になり、俺は松永の執念深さに戦慄した。
あいつ、これから何をする気なんだろう。監禁とゲロ飯だけで済ますつもりはないらしい。
頭が痛くなったのは、病気のためばかりではないように思えた……。