贖罪5
第5節
西崎克巳。中学の時、クラスメートだった奴だ。
ヒョロリとして虚弱で、いつも本ばかり読んでいて、陰気な奴だった。そのうえちょっと女みたいな顔をしていたから、格好のいじめの標的だった。
俺は、弱い奴や女々しい奴がキライだったから、あいつを虐めるのは愉快だった。
あの不気味な松永医師は、西崎少年が成長したものなのだ。そうに違いない。
西崎のことなんて、すっかり忘れていた。だから彼と再会しても、思い出せなかった。名字も変わっていたし。
まさかあいつが医者になっていたなんて。
松永があの西崎だったするなら、あいつの数々の不審な行動にも説明がつく。
俺は西崎なんて忘れていたけれど、あいつのほうは覚えていたのだ。だから俺を見て、顔色を変えたのだ。さぞかし驚いたことだろう。昔自分を虐めた奴が、患者として訪れてきたのだから。
かつてのいじめっ子が患者となり、奴はほくそ笑んだのだろう。立場が逆転したと。
松永と西崎が同一人物だという証拠があるわけではない。けれど俺は、松永克巳は西崎克巳に違いないと確信した。思い出してみれば、あの陰気な少年がそのまま成人したような松永の風貌。松永の奇妙な言動。
彼が西崎少年と同一人物でないとすれば、説明がつかない。
名前だって、同じ「克巳」じゃないか。
こんな偶然、あるものか。
松永が、ノックもせずにいきなり入ってきた。俺は奴を睨んだ。
松永は、俺がいつものように気味悪がる様子を見せないので、首を捻ったようだった。
もう、こいつの正体は分かっているんだ。俺は無闇に怯えなかった。松永が気味悪いのは相変わらずだが、正体の分からない不気味さだけは、無くなったのだ。
「あんた、西崎だろう」
俺は宣告するように言った。松永は驚かなかった。彼は静かに言った。
「やっと、思い出したの」
やっぱり……。俺は息を飲んだ。松永は、自分が西崎だと認めたのだ。
「西崎なんだな。中学の時の」
俺が確認すると、松永は頷いた。もう間違いない。松永は西崎克巳であったのだ。
「なんで、名字が西崎から松永になったんだ」
俺が素朴に問うと、松永は言った。
「松永は母方の親戚でね。自殺未遂のことがあって、かえって僕は医者になりたいと思ったけれど、学資がなかった。松永は、跡継ぎがいなかった。そういうわけで、僕は松永おじさんの養子になったのさ」
俺は、院長と克巳が、似ているのに実の親子らしからぬ様子だったことを思い出した。
「僕は君のことを一日だって忘れたことはなかったのに……」
松永は呟いた。言葉の表面だけを聞けば何だか愛の告白のようだが、もちろんそんな甘いものではない。松永の口調には、陰気な底深い恨み節がこもっていた。
「ひどい人だ……。あんなに惨いことをして、それを忘れ去っているなんて」
幽霊のような目で、俺を見る。ぞっとした。
「十二年も昔のことだ。忘れるのが普通だろ!」
まさかこいつは、十年以上もの間、恨み続けていたのだろうか。ちょっと、異常じゃないか?
松永は、ベッドに広げられたままの同窓会の通知に目を留めた。松永は通知を拾った。
「これで、やっと僕のことを思い出したのか……。手首の傷を見せても、何にも思い出さなかったのに」
どうやら松永は、わざと俺に傷を見せたらしい。もしかすると彼は、普段は傷を隠していて、俺にだけそれを覗かせたのかもしれない。昔受けたいじめの痕を見せつけるために。
松永は通知を放り投げた。
「僕の所には、同窓会の通知なんて来なかったよ。途中で引っ越したからね。もっとも、もし同窓会の誘いが来たとしても、行きたくないけれど」
そう言って、通知を踏みつけた。いじめられっ子だった松永には、中学時代にろくな思い出が無いのだろう。
松永が俺を見つめた。
「君は僕を虐めて笑っていたね。楽しかったんだろう。でも僕は辛かった」
どうだったっけ? 俺は頭痛の隅で、記憶をさぐった。俺はどんなことをして、笑ったのだろう。虚弱な西崎を延々走らせたり、女子の前で裸に剥いたりしたような……。
罪悪感は薄く、懐かしさがあった。
子供の頃に蟻を潰して楽しんだのを思い出すような感じだ。何匹の蟻を踏みつぶしたかなんて、覚えちゃいない。俺は、いじめの細かいところまでは思い出せなかった。
そんなに根に持たれるようなこと、したっけか? したとしても、少年時代の遊びみたいなもんじゃないか。松永の自殺未遂だって、彼が勝手にやったことだ。
俺には、松永の恨みは、弱虫の逆恨みのように思えた。
「今度は、僕が楽しむ番だよ」
松永が微笑んで言った。俺はポカンと彼を見返した。
楽しむ?
その意味を飲み込みたくなくて、俺は呆然とした。
「今ほど、医者になって良かったと思ったことはないよ」
……。
ゆっくりと、無数の虫が這い登るような寒気が、襲ってきた。
松永は医者。俺は彼の患者。
「おい……冗談だろう……?」
寒気が、恐怖に変わった。
まさか松永は、医者の地位を利用して、患者の俺に復讐するつもりなのか?
十二年も昔の、子供の頃のいじめの復讐を?
気違いじみてる。
でも、今の松永は、その気になれば復讐できる立場にいる。
「あんた、あんた医者だろ? 何考えてるんだ?」
松永は、不気味に微笑んで答えない。ぞっとした。やる気だ。
「冗談じゃないぞ! こんな所、出ていってやる!」
「駄目だよ。退院なんかさせない」
松永は俺をベッドに押し戻した。病気の俺は、こんな優男にもかなわない。松永は俺を押さえつけ、言った。
「君は患者なんだ。それも、頭の病人。そしてここは、精神病院。何とでもできるんだよ」