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少年9

少年9


 放心して院長室を出ると、物凄い勢いでストレッチャーが走ってきた。

「若先生! 急患です!」

 看護婦が叫ぶ。心から憂鬱が一旦消え、僕は頭を切り替えた。医者の顔になる。

 運ばれてきたのは、少年だった。突然倒れ、救急病院に担ぎ込まれたがそこでは手に負えず、ここに回ってきたという。卒中かと思ったが、脳腫瘍だった。よく今まで我慢していたなと驚くほど、進行していた。助からないかもしれないという考えを、頭から叩き出す。これだけ辛抱強い子なら、絶対に耐えられる。頑張れ。生きろ。

 人事を尽くして執刀し、僕は精根果てて手術室を出た。未明の四時だ。十時間もぶっ通しで執刀したのか。疲れるはずだ。でも一番頑張ったのは、患者だ。

 廊下のソファに寝転がる。少年の家族の姿が無かったが、気にかける余裕もなく、僕は気絶するように寝てしまった。

「先生。そろそろ外来の患者さんが見える時間ですから、起きてください」

 無情な看護婦が、僕を揺り起こした。節々に痛みを感じながら、重い体を起こす。

「昨日の急患、歌手なんですって。居谷晃司って知ってます?」

 看護婦の興奮した声が、朦朧とした耳を通り過ぎる。この看護婦も昨日の手術に立ち会ったのに、なんでこんなに元気なんだ。女のパワーには圧倒される。

 少年は、手術室から集中治療室に移されていた。どうにか峠は越えたが、予断を許さない状況だ。武骨な医療器具に囲まれて、小さな体がますます小さく見える。こんな小学生がもう歌手として働いているとは。

「両親は?」

 ようやく少年の家族が見えないことに気づき、看護婦に尋ねた。看護婦は眉をひそめた。

「もう何度も連絡したんですけどね。うるさい、死んだら知らせろ、ガチャンですよ」

 なんだそれは。僕も眉をしかめた。

 少年の家族は、病院に来なかった。瀕死の子供に関心が無いらしい。こんな親があるのだろうか。

 見舞いに来ないのは、居谷少年の家族だけではなかった。小林美佳も、とんと姿を見せない。恋人を見捨てたのだろうか。彼女が流した涙は、何だったんだ。僕は美佳に電話を入れた。


 美佳は、訝しげな顔をしながら、僕の呼び出しに応じた。彼氏の見舞いには行けなくても、医者の誘いには乗るらしい。所詮、女はこんなものか。

 おまえが見捨てたら、誰が津村を支えるんだよ。今こそ、愛が試されるんじゃないのかよ。僕が怒れた義理ではないが、デートにはしゃぐ美佳に、憤りを覚えた。この女、弄んでズタズタにして、捨ててやる。内心の企みを隠し、警戒を解くように無邪気に振る舞う。

 女が好きそうなロマンス映画を見た。くだらない純愛物語。なのに、涙が出た。恋人に命を捧げるヒロイン。無償の愛。あるわけないよ、こんなの。作り事だよ。もしこんな女が本当にいたら、女神様だ。ひれ伏すよ。僕は、映画のヒロインに二時間、恋をした。

 映画の後は適当に時間を潰して、別れ際、来週も逢おうと誘うと、美佳はあっさり頷いた。ああ。映画のヒロインと大違い。彼氏が死にかけてるっていうのに、他の男に尻尾を振って。現実の女は、こうなんだよな。あーあ。


 美佳に呆れる一方で、僕は彼女以上に津村にひどいことをしていた。頭痛と体調不良を訴え続けるのを無視して治療せず、相変わらず違法監禁、施したのは点滴だけ。

 寝ていることが多くなった津村の点滴を替えていると、不意に彼が目を覚ました。

「松永」

 呼ばれ、僕は少し驚いた。近頃の津村はかなり錯乱していて、僕が誰なのか、もうすっかり分からなくなっていたのに。

「津村。僕が分かるのか」

 すると津村は怪訝な顔をした。錯乱の様子は見られない。

「松永。おまえどうして俺の手当をするんだ。許してくれる気になったのか」

「……食事はとれそうか?」

 小康状態の津村に尋ねる。津村の表情に、見る見る喜色が広がった。

「ありがとう松永。ありがとう松永」

 やっと解放されると思ったのか、泣く。津村の嗚咽を背に、僕は一旦病室を出た。食事のトレーを手に、病室に戻る。

「わあ……」

 久しぶりのまともな食事に、津村が無邪気に感嘆する。その目の前で、僕は料理をゲルにした。

「……」

 津村が呆然となる。

「ほら。食べろよ」

 僕は津村に、混ぜご飯を突き出した。


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