少年8
少年8
翌週。小林美佳が、華やかな姿でやって来た。短いスカートから伸びた脚線美が目を引く。しかし、派手な化粧や大胆な服に反して、表情は暗い。
「先生。面会謝絶って……」
美佳は、恋人の病室に下げられた面会謝絶の札に、狼狽えた。
「先生。孝介、どうかしたんですか。面会謝絶って、どういうことなんですか?」
不安に戦きながら訊ねる。
「……津村さんは、今は少し、人と話せる状態ではないのです」
僕は肩を落として答えた。ストレスと脳の膿は、津村の精神を日々圧迫し、今や彼は妄想と現実の境をふらふらしている。僕が仕立てずとも、もはや立派な「キチガイ」だ。
「孝介に、会わせてください。彼に会わせて。話をさせて」
美佳はすがった。僕は彼女をじっと見下ろした。
「あなたは、津村さんの友達ですね? 大丈夫ですね? 彼がどんな状態であっても、津村さんは津村さんなんですよ。いいですか?」
今の津村は真性の「キチガイ」だぞ。おまえにそれを支える覚悟があるのか――僕は、自分で津村をそんなふうにしておきながら、心中で美佳に問いただした。津村をどん底に突き落とす一方で、彼を支える存在が居て欲しいとも思う。
矛盾。自分の心が分からない。
「大丈夫です。孝介に会わせてください」
青ざめながら、美佳は言った。奇妙に安堵しながら、僕は彼女を監視の小部屋に案内した。
「この窓はマジックミラーになっていて、向こうからこちらを見ることは出来ませんが、こちらから向こうを見ることはできます」
説明し、覗くと、津村は一人で病室をぐるぐる回っていた。今日はどんな幻覚を見ているのだろう。
「……」
美佳は蒼白な顔で、恋人の狂態を見つめていた。津村は無意味に部屋を回り続けている。時々倒れて、見ている者を驚かせた。なんだか壊れたカラクリ人形みたいだ。こっちまで目が回る。
もうやめろよ、津村。ほら、恋人が来てくれたぞ。僕は失敗を装って、灯りのスイッチを入れた。美佳の存在を津村に知らせる。
「美佳!」
鏡になった窓の向こうから、津村が叫んだ。途端、冷水を背に垂らされたように、美佳はビクリと飛び上がった。
「嫌ッ」
美佳は僕を突き飛ばし、小部屋を飛び出していった。振り返りもせず、一目散に逃げていく。僕は呆気に取られて、彼女のすらりとした背を見送った。
「……」
僕は灯りを消した。マジックミラーが復活し、隣室でまた津村が回っているのが見えた。
「おい。彼女は帰っちゃったぞ」
病室に入り、僕は津村に声をかけた。津村は答えず、ふらふらと旋回していた。倒れる。今度は、起きあがる気配が無かった。
「よっと……」
気絶した津村を抱えて、ベッドに横たえる。力の抜けた体は重いが、ずいぶん痩せたようだ。ぐったりした津村を見下ろしながら、もう美佳は来ないかもしれないと思った。
津村の病状悪化が続く。幻覚を見るだけでなく、食事を受け付けなくなり、点滴を施した。
「げっ……」
津村の病室に入り、僕は目を剥いた。津村は、点滴の針を自分の腕に抜いたり刺したりを繰り返していた。腕が血で真っ赤だ。
「痛い……」
「痛いならやめろよ! 何やってるんだ!」
僕は針を津村から取り上げた。腕を消毒、止血する。手当を受けている間、津村は焦点の合わぬ目でボンヤリしていた。
「先生!」
津村は、たった今僕の存在に気づいたように、いきなり声を上げた。こいつは最近、僕のことが分からなくなってきている。
「先生。僕はいつ退院出来るんですか」
「……さあね」
「なんか、ずいぶん長く入院しているような気がするんですが。頭も痛いし、胃もシクシク痛むし。これ、本当にただの風邪なんでしょうか? 先生、教えてください。僕の病気は、何ですか?」
津村は不安そうに尋ねた。
「……脳膿瘍だよ」かなり末期のねと、心の中で付け足す。
「脳膿瘍? あ、知ってます知ってます。頭に膿がたまる病気でしょう? たしか、手術で治るんでしたよね。ああ良かった。あれ? なんで俺、こんな病気知ってるんだろう」
津村は首を傾げ、頭痛に顔をしかめた。
「頭痛い……」
呟き、頭を抱えてうずくまる。
「痛い……痛い……痛い……ウウウゥウウウアアアアア」
津村は手負いの獣のように唸った。
「ウウウゥウウウアアアアアキイイイイイうるさいうるさいうるさいよーウウウウウウウ黙れ気違いギイイウウアアアアアうるっせえ死ねアアアアアアこの気違い黙らせろオオオオ!」
津村は頭を押さえ、自分の悲鳴に悶えた。僕は彼の口を塞いだ。悲鳴が止み、津村は目を見張った。
「せんせい。せんせい。せんせい。せんせい。せんせい。せんせい。せんせい」
津村が白衣にしがみついてきた。
「どうしたの津村くん。何を怯えているの」
「俺は気違いになってしまった。どうしよう。気違いにはなりたくなかったのに。俺は頭のおかしい人間とは違うつもりだったのに。どうしようどうしようどうしよう」
ガタガタと怯える。ようやく、自分が病気だと、他の患者と同じなのだと、分かったようだ。
「頭や心を病んだからといって、気違いというわけではないよ。風邪をひいたり骨を折ったりするのと、同じことだ」
津村に諭す。僕は精神病者を差別しない。むしろ、弱い彼らを愛しくさえ思っている。病人は、非力で哀れだ。津村がしがみつき、壊れたレコードのように繰り返す。
「気違い気違いきちがいキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガイキチガ」
津村は突然、糸が切れた人形みたいにグタリとなった。
僕は津村の病室を出た。ひどく気分が悪い。仇を苦しめて、爽快なはずなのに。僕は院長室に向かった。
「お養父さん」
養父に睨まれ、僕は訂正した。
「院長先生」
「なにかね」
「相談があるのですが」
僕は、津村のことを院長に報告した。先日の一件以来、養父はまったく津村のことに触れてこなかった。養父はじっと聞いていた。
「脳膿瘍の末期です。これ以上放置したら、廃人になる。死ぬかもしれない。どうしたらいいでしょうか」
「そこまで分かっていて、何を相談する。執刀すればいいだけのことだ」
「それが出来ないから困ってんですよ!」
僕は癇癪を起こした。八つ当たりだ。もちろん、技術的には出来る。僕はそういう病気の専門医だ。開頭して膿を取るくらい、わけはない。技術の問題ではなく、心理的に、僕は津村の手術に踏み切れないのだ。もう復讐は十分、これ以上続けたら危険だと分かっているのに。
「どうして、僕と津村を放っとくんですか。家族を見捨てないと言ったのは、嘘ですか。津村を見殺しにして、知らんぷりですか!」
僕の言いがかりも甚だしい癇癪を、養父は黙って聞いていた。八つ当たりがおさまるのを待ち、養父は落ち着いた声で言った。
「私には、津村よりおまえのほうが、苦しんでいるように見える」
「え……」
「津村は物理的な脳の病気だが、おまえは心の病気だ。おまえのほうが、津村より重症だ」
「……」
黙る。僕は反論しなかった。心の病気。そうかもしれない。いや、そうだろう。僕がやっていることは、常識ある社会人の行動ではない。常識以前に、犯罪だ。分かっている。医者でありながら、それも脳や神経が専門でありながら、僕は精神を病んでいる。
「おまえも医者の端くれなら知っているだろうが、病に対して医者は非力だ。医者は、患者自身の治癒力をほんのわずか手助けするに過ぎぬ。病気を治すのは、医者ではなく患者本人だ」
また反論出来なかった。僕はまだ研修を終えたばかりの若造だが、医者のどんな知識も技術も患者の気力にはかなわないことを、薄々感じている。とくに、心の病は。
僕は、養父が僕と津村のことを傍観しているわけを、理解した。医者に出来ることが、ほとんど無いからだ。僕は自分で病気を治すしかないのだ。
「……すみませんでした」
僕は養父に謝り、きびすを返した。




