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少年5

少年5


「克巳」

 低い声で呼ばれて、僕は立ち止まった。振り返らなくても分かる。養父だ。

「なんでしょう、院長先生」

 僕は養父に振り返った。職場では彼は義理の父ではなく、松永病院の院長だ。

「受け持ち患者を一人、個室に移したそうだな」

 言われて、僕は少し唾を飲んだ。きっと、津村のことだ。僕の正体に気づいた津村が逃げないように、僕は彼を個室に移したのだ。無論、職権乱用だ。

 僕は、背に冷や汗をかきながら、表情は涼しさを保った。

「はい。経過が思わしくなく、他の患者に悪影響を与えると良くないので。それに、患者自身にも安静が必要と判断しました」

「ふうん……」

 探るような目で僕を見る。もしや養父は、僕が医師の立場を利用して仇敵に復讐しようとしているのを、気取っているのだろうか。まさか。十二年も前のこと、養父は養子のいじめっ子の名前なんて、覚えていないだろう。それとも、この几帳面な男は、実子でもない跡取りの仇敵を、まだ覚えているのだろうか。そんなに、養父は僕に関心があったのか? 松永家の養子になって八年、一度も養父は僕の過去に触れなかったのに。

「どうかなさいましたか? 何か不審な点でも?」

 僕は自分から訊いた。精神病院の患者を個室に移すなんて、取り立てておかしなことではないはずだ。養父がたとえ怪しんでいても、僕を糾弾は出来ない。

「べつに」

 養父は、一瞬視線を外した。

「どうして、そんなことをお尋ねになるんです? 患者を個室に移すなんて、珍しいことじゃないでしょう」

 僕は食い下がって尋ねた。養父は軽く息を吐いた。

「……そうだな。ただ、あの患者には家族がいないそうだから、個室に移すと完全に孤立してしまう。それではかえって症状が悪化しないかと思ってな」

 それは医者として純粋に患者を案じているようにも聞こえたし、僕の企みを見抜いたうえで釘をさしているようにも聞こえた。

 おまえは仇を孤立させて、密室で復讐するつもりなんだろう。腹に一物ある身には、そう聞こえてしまう。

 真面目で医者としては誠実な養父のことだから、津村をただ一患者として気にかけている、というのは実に自然なことだ。たとえ津村が養子の仇だと分かっても、この養父なら私事を挟まず治療に専念するだろう。彼には、養子のことよりも患者のことのほうが、大事なはずだ。

「大丈夫ですよ。津村さんには、恋人がいるそうですから」

 僕は平静の仮面をつけたまま、言った。ふうん、と養父は唸った。

「恋人ね。親密なのか?」

「さあて。それは患者のプライベートですし。でも、家族がいても見捨てられる人も大勢いますからね」

「私は、見捨てぬ」

「え?」

「恋人なんて、嫌いになったら別れて終わりだろう。弱い絆だ。家族は違う。嫌いになった、喧嘩した、その程度で離れるわけにはいかぬ。家族には義務がある」

 僕は少し驚いて養父を見返した。仕事一徹の養父の口から、こんなことを聞こうとは。

「惚れた腫れたで支えられるほど、看病は甘くない。まして精神病院だ。津村氏は、恋人に去られるかもしれぬ。そうなったら、担当医のおまえだけが、患者の頼りだ」

「……」

「気になったのは、それだけだ」

 言い置き、養父は背を向けた。僕は息を吐いた。まったく、真面目な医者だ。今更に、養父の医者としての真摯さを見せつけられる。僕は、医者でありながら患者に復讐しようとしていることに、少しだけ羞恥を抱いた。医者の鏡のような養父と比べて、僕は矮小すぎるのかもしれない。

 じゃあ、津村を許せるのか? 自問。否。許せない。

 僕はきっと、医者失格なんだろう。人間の器が小さすぎるんだろう。でも、痛い思いをしたのは、養父ではなく、僕なのだ。綺麗事で流せるような傷ではない。医者だって人間だ。神様じゃない。傷つき血を流す、生身の人間なんだ。自分を傷つけた敵を、おいそれとは許せない。

 けれど、どんな理由も言い訳も、養父には通じないだろう。僕の企みが知れたら、大変だ。公明正大な養父は、身内であっても、いや、身内だからこそ、不正を許さないだろう。

 気をつけなければ。幸い、養父はまだ僕の企みに気づいていないようだ。きっと、津村が昔のいじめっ子だったことすら、知らないだろう。養父に、僕の復讐を知られてはならない。


 僕は、食事のトレーを持って、津村の個室に赴いた。患者の日常のケアは看護婦の担当だが、養父の注意を利用して、憚ることなく僕は津村の世話に当たった。孤独な患者の支えになるというのが大義名分。もちろん本心は、仇敵を虐めるのに看護婦の目があっては困るからだ。

 さあ、復讐の始まりだ。やられたことをそっくり返してやる。

 僕が病室に入ると、津村の顔が曇った。けれど、食事のトレーを見て、喉を鳴らした。閉じこめられた入院生活では、食べることしか楽しみがないのだろう。

 クス。

 僕は笑って、唯一のお楽しみを、目の前でかき混ぜてやった。みそ汁もサラダもおかずもご飯も、全部まぜこぜにする。ゲル状の最悪な料理が出来上がった。唖然とする津村に、僕はニッコリと吐瀉物のような食事を差し出した。

「こんなもん食えるかよ」

 津村はトレーを突き返した。おや、お気に召さないのか。

「僕は食べたよ。君は僕の弁当をまぜこぜにして牛乳までかけて、僕に食べさせたじゃないか」

 昨日のことのように覚えている。中学時代の昼食は最悪だった。母の手作りを、津村は笑いながら滅茶苦茶にかき混ぜた。僕はそれを食べた。ひどい味だった。吐きそうになった。でも全部食べた。こんなグチャグチャな弁当を残すと、いじめに遭っているのが親にバレるから。不味さと屈辱と親への申し訳なさに、涙が出た。そしたら津村は、泣き虫毛虫と、また笑いやがった……。

 さあ食え、津村。あの日の味と屈辱を、おまえにも味わわせてやる。食え。僕は津村にトレーを押しつけた。津村はそっぽを向いた。ふうん、僕には犬食いまでさせたくせに、自分は手をつけないつもりか。

「食べないなら、それでもいいさ。君が、ひもじい思いをするだけだ」

 僕はトレーを下げた。病室を出る。もちろん、諦めたわけじゃない。津村には絶対、ゲル状料理を食ってもらう。

 さて、小林美佳嬢が見舞いに来るのが週末だから、まだずいぶんある。僕はしばらく、津村を放置することにした。ナースコールが何度も鳴ったようだが、無視した。一日二日くらい飲まず食わずでも、死なない。まあ、相当苦しいだろうけどね。


 二日経った。死んではいないだろうが、脱水症状を起こしているかもしれない。三日も放置するとさすがに危険だ。僕は津村に食事と水を持っていってやることにした。

 津村はかなり参っていることだろう。僕は口笛を吹きながら、悠然と彼の病室を訪れた。さすがの津村もぐったりしていたが、僕が入ると猛獣のように飛びかかってきた。

「この野郎!」

 津村は激怒していたが、僕は簡単に彼をあしらった。ひどく怒っているが、たいした力は無い。病気のうえに二日も絶食したのだから、当然だ。でも津村は、僕に軽くいなされたことが、ショックだったみたいだ。信じられないという顔をしている。僕はそんな彼の鼻先で、二日ぶりの料理をかき混ぜてやった。

「はい」

 ニッコリと、まぜこぜ料理を差し出した。津村の少し痩せた顔に、怒りよりも唖然とした表情が浮かんだ。僕はトレーを彼の眼前に突き出し続けた。

「……」

 津村は無言で、家畜のエサのような料理を見た。葛藤が浮かぶ。空腹と渇きに焼けているだろうに、まだ躊躇っている。けっこう、頑固だな。

「食べないの? 下げちゃうよ」

 僕はトレーを引っ込める仕草をした。

「待て!」

 津村は焦って僕の腕を掴んだ。また絶食させられてはたまらないと思ったのだろう。僕は悠然と、トレーを戻した。

「畜生……」

 低く悪態をつき、津村は食事を受け取った。彼が鼻をつまんで一息に食事をかき込むのを、僕は微笑んで眺めた。

「こんなこと許されると思っているのか」

 食べ終わり、津村が僕を睨んで唸る。非常識? 犯罪? 何とでも言えよ。なにも出来やしないだろ。

「僕が受けた仕打ちは、まだまだこんなものじゃないよ」

 こんなもの、挨拶にすぎない。復讐は始まったばかりだ。津村は唖然と僕を見つめた。


 さあ、混ぜご飯の次は、犬食いだ。四つん這いで額ずいて食べさせるんだ。僕は鼻歌を歌いながら津村の病室に向かった。最近は、楽しくて仕方がない。彼女でも出来たんですかと、看護婦にひやかされた。近頃は看護婦を看護士と言うようだが、本質が変わったわけじゃないのに言い方だけ変えるのは好きじゃないので、僕は看護婦は看護婦と呼ぶ。

「堅物な若先生に恋人が出来るなんてね。どんな人なんです?」

「そんなんじゃないよ」

「そうですかぁ? 照れずに教えてくださいよ。もしかして、言えない人ですか。噂は本当だったんですか」

「違うって」

 僕は看護婦を追い払った。女は色恋沙汰が好きだよな。

 二十代の若気盛りに浮いた話一つないので、僕は硬派だと思われている。一部の看護婦の間では、ホモじゃないかとか言われていて少々不愉快だが、放っている。鬱陶しくまとわりつかれるくらいなら、ホモだと思わせておこう。もちろん、男に興味はない。面倒だから職場の女には手を出さないが、仕事に響かない範囲で、手軽な女と適当に遊んでいる。

 女といえば、小林美佳。そうだ、今度は津村から恋人を奪ってやろう。

 津村から恋人を奪うことは、復讐と同時に僕の保身のためでもある。津村に味方がいるのはまずい。恋人に去られたら津村は全くの孤立無援、完全に僕のオモチャになる。


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