贖罪4
第4節
美佳が訪れるや、俺は松永への不安を訴えた。
「病院、変わろう。あいつ、変だよ。ちょっと、おかしいよ」
美佳は狼狽えたように俺を見返した。
「落ち着いて、孝介」
あんな不気味な医者につきまとわれて、落ち着いてなどいられない。頭痛もいっこうに良くならないし、どんどん怖くなってくる。だが美佳は俺をなだめた。
「孝介、寝ぼけてたんじゃない? なんで松永先生が、あんたの顔を夜中に眺めなきゃならないの。おかしいわよ」
「だからあいつはおかしいんだって! 手首に傷だってあるし、絶対まともじゃない」
美佳の表情が曇った。
「その……手首の傷だけど……」
美佳は口ごもった。
「なに?」
「それ、孝介の見間違いだったんじゃない?」
「なんだって?」
「松永先生に、そんな傷、無かったわよ」
傷の話を聞いて、美佳は心配になって松永の手首を調べたのだろう。
「おまえが見たのは右手だったんじゃないか? あいつの傷跡は左手首にあったんだ」
きっと、利き手の右で左手首を切ったのだろう。すると美佳は首を振った。
「両方、見たけれど、無かったわよ……」
「……」
俺は言葉を失った。
見間違いだったのだろうか?
そういえば、俺が奴の傷跡を見たのは、麻酔で朦朧としていた時だった。
見間違いだったのかもしれない。
「でも、やっぱり松永は変だよ。夜中に俺をじいっと見下ろしてさ……」
「……それも、見間違いか、寝ぼけていたんじゃないかなあ」
美佳が、困ったように言う。
寝ぼけていた? そうだろうか。いやにはっきり覚えているし、あれから気味が悪くて、朝までずっと起きていたのだ。寝ぼけていたとは思えないけれど。
「思い詰めないほうがいいわ」
美佳が、いたわるように言った。
「今は、病気を治すことだけ考えて。早く元気になって。ね?」
優しい言葉。嬉しくなってもいいはずだが、なぜか違和感。普段の彼女は気が強いので、そんなふうに感じるのだろうか。
「お大事にね」
美佳が出ていくのを、何故か逃げていくように感じた。
美佳は、俺を怖がっているのだろうか……?
なぜ?
松永が来た。無論、院長ではなく、不気味な息子のほう、松永克巳医師だ。
あああ、嫌だなあ。
「先生。夕べ、夜中、何をしてらしたんです?」
俺は思い切って訊ねてみた。松永は微笑んで答えなかった。俺は苛立った。
「夕べ夜中、じっと俺を見てたでしょ。何なんです?」
再び問うてみる。松永は黙って笑っている。気味の悪さと同時に、怒りがわいた。
「おまえ、何なんだよ!」
俺は松永に掴みかかった。その拍子に、奴の袖がまくれあがった。
手首の傷が、はっきり見えた。
俺が息を飲むと、松永は薄く笑って自分の傷跡を撫でた。
「これですか?」
「……」
「辛い事があってね。それから逃げたくて、切ったんですよ」
やっぱり、俺の見間違いなどではなかった。
松永には傷があり、奴は自殺未遂の過去があったのだ。
どうして美佳は、嘘を言ったのだろう?
「痕が残るような自殺未遂をするものじゃない。痕を見る度に、あの辛かった事を思い出す……」
しかし、そう言う松永の表情は妙に明るい。
なんなんだ? なんなんだ?
怒りが消え、再び気味の悪さが立ち上った。
「辛かった事って……?」
思わず訊いてしまう。
「そのうち、そのうち分かる……僕の苦しみ、僕の絶望、僕の痛み……全部……」
独り言のように呟く松永は、薄く笑っていた。
なんで俺が、こいつの苦痛を分からなきゃならないんだ?
「先生。あんたは一体……?」
「頭痛はどうですか?」
松永が話を逸らした。頭痛は、相変わらずだ。痛み止めの他に、抗生物質やら何やら、色々薬を貰っているが、良くはならない。
美佳が入ってきた。
もしかして、松永が話を逸らしたのは、美佳が来るのが見えたからだろうか……?
「小林さん」
松永は何事も無かったように、美佳に話しかけた。
「津村さんは、少し興奮しているようです」
「そ、そうですか……」
美佳がかすかに青ざめた。何なんだ?
松永が出ていくと、俺は美佳に問いつめた。
「松永の奴、やっぱり傷跡があったぞ。自殺未遂だって、言ってた。美佳、なんで嘘つくんだよ」
美佳が息を飲んだ。
「孝介。松永先生の傷跡を、また見たの?」
怯えたように青くなる。どうしたっていうんだ。
「見たよ、さっき。あいつがとぼけるから頭に来て、取っ組み合いになりかけたんだけど、その時に手首が見えた。はっきり」
「……」
美佳は項垂れた。
「美佳、あいつに傷跡がないって言ったよな。あったじゃないか。なんで嘘ついたんだよ」
「あ、あの……ちゃんと、見えてなかったのかもしれない。ホラ私、近眼だし……」
しどろもどろな調子で言う。なんか、最近の美佳は変だ。
「美佳。俺に、隠し事でもしてるのか?」
「……」
美佳はじっと俺を見つめた。目が潤んでいて、ちょっとドキリとした。
「孝介。早く、病気を治して。先生の言うこと、よくきいて。早く、元に戻って」
俺は面食らってしまった。
「美佳?」
美佳は、笑顔を作った。努力して笑っているような笑顔。
「退院したら、今度こそデートしようね」
「う、うん……」
なんだか美佳が痛々しく見え、俺は問いつめるのをやめてしまった。
美佳は、見舞いの他に、俺のアパートに来た手紙を持ってきてくれた。美佳が帰ってしまった後、俺は手紙の束に目を通した。
半分以上がダイレクトメールだった。つまらない。美佳の奴、ダイレクトメールなんかわざわざ持って来なくていいのに……。
ダイレクトメールに混じって、まともな手紙が一通あった。何だろう? 封を開けてみた。
同窓会の通知だった。
同窓会ねえ……懐かしいが、入院しているような状態では、とても行けやしない。
ん? 待てよ。
俺は突如、引っかかりを覚えた。
中学の同窓会……中学。
俺の脳裏に、一人の少年の顔が浮かんだ。
少年の顔と、松永克巳医師の顔が重なる。
「あ……」
俺の背に、氷のような寒気が走った。
「あいつ……西崎克巳だったんだ……」