少年3
少年3
今日は津村の手術だ。でも僕はあいつを救うつもりなんかない。恐怖と絶望のどん底に落としてやろう。
いつもは手首の傷を化粧で隠しているが、今日はそれを津村に見せてやる。これで僕のことを思いだし、戦慄するだろう。
津村が手術室に運ばれてきた。
「先生。お願いしますよ」
津村がすがる。胸がうずくのは、優越感のためか。
「大丈夫ですよ。任せてください」
微笑みながら、麻酔を施す。
「では、数を数えてください」
「一、二、三――」
津村が朦朧としてきた所で、僕は手首の傷を見せた。閉じかけていた津村の目が、開いた。
「……」
津村は何か言いたそうに僕を見上げたが、もう言葉は出ない。不安そうな目。
どうだ、思い出したか? おまえが虐めた西崎だよ。おまえはこれから、かつてのいじめられっ子に執刀されるんだよ。生きた心地がしないだろ?
僕は津村を覗き込んだ。一瞬驚きに見開いた津村の目は、すぐに焦点を失い、閉じていった。
思い出しただろうか? 恐怖しただろうか?
手術室に、僕と津村だけになった。津村は意識がない。まな板の上の鯉のように、横たわっている。
やろうと思えば、僕はこいつを殺すことだって出来る。自然死に見せかけて。僕はじっと津村を見つめた。脳裏に五つほど、自然死に見せかける完全犯罪が浮かんだ。戦慄と興奮に、眩暈がした。復讐できる。誰にもバレずに。やれる。出来る。今の僕なら。
……。
「安心しろよ。殺しはしないから」
麻酔が効いて眠っている津村に呟く。これでも医者の端くれだ。いくら完全犯罪でも、殺人は出来ない。たとえ津村のような奴でも。医者の良心、いや意地が、かろうじて衝動を押し止めた。
「僕が医者で良かったな、津村」
津村は何も知らずに寝こけている。暢気なものだ。助かったと思って、安堵しているように見えた。甘いよ。殺さないが、許すなんて一言も言ってない。
僕は津村の髪を丸刈りにして包帯を巻いた。執刀はしない。
殺しはしないが、この男には苦しみ抜いてもらわなければ。
驚いたことに津村は、麻酔が切れて目覚めても、まだ僕の正体に気づいていなかった。なんていう鈍い奴だ。信じられない。僕は、怒るを通り越して呆れてしまった。
津村は相変わらず頭痛を訴えている。津村は手術を受けたと思っているようだが、包帯の下は無傷、頭痛がして当たり前だ。せいぜい、痛がるがいい。
しかし手首の傷を忘れたわけではなかったようで、奴の恋人の小林美佳が、しきりに僕の手元をうかがっている。津村が、手首に傷のある不気味な担当医への不安を、恋人に訴えたに違いない。
「どうかしましたか、ええと……」
名前を覚えているが、あえてとぼける。すると彼女は小林ともう一度名乗った。
「ああ、小林さん。たしか、津村さんのお友達でしたね」
とぼけて手を打つ。ここで僕は、少し沈痛な面もちをしてみせた。
「小林さん。あなた、僕の手首を窺っていたんじゃないですか」
単刀直入に言うと、美佳嬢は驚いたように目を見開いた。隠し事の出来ない女のようだ。
僕は白衣の袖を両方とも、まくってみせた。傷跡は綺麗に化粧で隠してある。美佳は息を飲んだ。
「小林さん。津村さんのように、頭の病気の人には、周囲の理解が必要です」
僕は、笑いをこらえて、言った。
「彼が幻覚を見たり、変わったことを言い出したとしても、それは病気のせいなのです。暖かい目で、見守ってあげてください」
小林美佳は、僕の話をあっさりと信じてくれた。僕を頼るような目さえしてくれた。美人に頼られるのは、悪い気はしない。
いくら恋人であっても、頭を病んだ者よりも医者の言を信じるのは、当たり前だ。
津村への復讐の、第一歩。津村を精神病者に仕立ててやる。そうすれば美佳はあいつから離れていくし、津村が何を訴えても、病人の戯言で流される。勤務を終えて帰途、僕は口笛を吹きながら、これからの素敵な復讐計画を考えた。
「ただいま帰りました」
帰宅すると、養母が出迎えてくれたので、少し驚いた。この人は夫の出迎えはするけれど、僕の出迎えはしない。
「あら。克巳だったの」
養母は少しがっかりした顔をした。夫が帰ってきたのかと思ったらしい。
「お養父さんはまだ、お帰りではないのですか」
おとうさん、と発音するのに、軽い引っかかりを覚えた。松永の養父母を「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶことに、僕は未だ、抵抗がある。心の中では「おじさん」「おばさん」と呼んでいる。
養父母が嫌いなわけではない。少し堅苦しいけれど、とてもちゃんとした人たちだ。最近話題の虐待なんかとは、無縁な家だ。ただ、実の両親ではない。それだけだ。
「ええ、まだ帰ってきていないの。何か聞いてる?」
首を傾げて、養母が問う。僕も首を捻った。真面目な養父は、いつも定時に帰ってくる。学会などで、遅れたり家を空けたりする時は、一週間も前から家族に知らせる。神経質なくらい、キチンキチンとした人なのだ。その養父が、僕よりも帰りが遅いなんて。
食卓はもう出来上がっていたが、養父よりも先に箸をつけるのが憚られ、僕と養母はじっと主の帰りを待っていた。何かあったのだろうか。
「病院に問い合わせてみましょうか」
僕が席を立つと、電話が鳴った。養母が受話器を取り上げた。
「はい、松永――ああ、あなた」
僕は養母を振り返った。養父からの電話らしい。
「どうなさったの……まあ、まあ! 本当ですか、それ」
どうしたのだろう。行儀の悪いことだが、僕は聞き耳を立てた。養母はしきりに驚いている。
「そうですか……ええ、分かりました。ええ」
電話なのに頷きながら話し、養母は受話器を置いた。いつも落ち着いている上品な顔に、珍しく狼狽の表情を浮かべている。
「どうなさったんです。お養父さんは、何と?」
僕が声をかけると、養母は驚いたように見返した。
「ええ……ああ、急な出張が入って、今夜は帰らないそうよ」
「急な出張? 何です?」
「さあ、お仕事のことはよく分からないから……」
養母はぎこちなく笑い、食卓についた。腑に落ちなかったが、僕はそれ以上の追求をせず、箸を取った。
養父が帰ってきたのは、夜中だったらしい。養母は起きて待っていて、夫を出迎えたようだが、僕は先に就寝していた。
翌朝、養父はいつものように新聞を読んでいた。
「おはようございます」
挨拶をして、僕は訊いた。
「ゆうべはずいぶん遅かったようですね。何かあったのですか?」
いつも原子時計のように正確な養父が、午前様とは珍しい。尋ねると、養父は新聞から顔をあげず「××精神医学会の会合だ」と低く答えた。
「その出張は来週じゃあ……」
「もう八時を過ぎたぞ、克巳。間に合うのか?」
新聞に目を落としたまま、養父は低く言った。僕は出張については切り上げ、支度を急いだ。なんだか妙だが、頑固な養父にあれこれ訊いても、答えてくれないだろう。
ゆうべは本当に出張だったんだろうか。だが五十を過ぎた男の行動を、いちいち詮索するのは余計なお世話だろう。僕はちらりと養母を見たが、彼女は何も言わなかった。妻である養母が何も言わないなら、養子の僕に何を言うことがあろう。養父母に一礼し、僕は家を出た。
「克巳」
家を出ようとした際、玄関で養母に呼び止められた。
「何でしょうか」
僕は時計を少し気にしながら、振り返った。
「……いってらっしゃい。気をつけてね」
特に用件もなく、それだけ言って、養母は立ち尽くしていた。なんなのだろう。養父も妙だが、養母もおかしい。首を傾げながら出勤する僕を、養母はいつまでも見送っていた。
病院に近づくにつれて、養父母への不審よりも、仇敵津村への復讐のことが、僕の頭を占めていった。さあ今日はどうしてやろうか。




