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少年2

少年2


 僕は、養父が出勤する前に、必ず病院に着く。準備はすでに、勤勉な職員諸氏によって整えられている。今日の僕の担当は外来。院長の養子だからといって、勤務に特別扱いはない。公明正大な養父らしいやり方だ。

 外来の患者や付き添い人は、不安そうに待合室でそわそわしている。カウンセリングが浸透してきたとはいえ、世間ではまだまだ、精神病院への偏見は根深い。だから松永病院は辺鄙な立地にも関わらず、ひっそりと患者がやって来る。むしろこの立地が、患者を呼んでいると言える。

 精神病患者というと凶暴なものと思われがちだが、実際の彼らの大半は大人しい。せいぜい、独り言を呟いたり体をゆらしたりといった奇矯を示す程度、実に無害な人たちだ。病人は非力なのだ。

 他病院からの紹介状を持つ患者は、優先的に診察される。僕は紹介状付き患者の問診票に、目を落とした。

「……!」

 体が硬直した。問診票の氏名欄。筆圧の高い、濃い文字が、目を射る。

 ありふれた名前、でも絶対に忘れられない名前。まさか……。

「津村……津村孝介?」

「先生。どうかしましたか?」

 若い男の声に、僕は反射的に顔を上げた。

 怪訝な表情をした外来患者の若者が、僕を見つめていた。雷。大人になっていても、長年会っていなくても、分かる顔。十二年前にはまだ少しあどけなさを残していた顔が、精悍に引き締まって、背も伸びて体格も大人になった。でも、間違いない。同姓同名の別人ではない。あいつが、あの野郎が、僕の前に立っていた。

 津村。

 椅子を蹴立てて叫びそうな狼狽を押しとどめたのは、職場の空気と医師の立場だった。養父の躾に感謝した。

 なんと津村と再会するとは!

「津村さんですね。今日は、どうされました?」

 医者の顔で、とくに柔和に対応する。すると津村は、頭が痛いと言った。僕はすぐに彼が分かったのに、向こうは僕のことが分からないようだ。

 忘れているのか、こいつ。

「では、検査をしましょう」

 一通り症状を聞き、笑顔を保ったまま、僕は津村を検査室に案内した。明日また来いと言って、一旦、彼を帰す。その後も外来患者の診察をしたが、どうにも集中できない。これではいけない。非番の医師を呼び出し、代わってもらった。悪いことをした。だが頭の中はもう、津村のことで一杯だった。

 津村津村津村津村津村津村!

 まさかあいつと再会しようとは! しかも、患者になってここに来るとは!

 僕は技師を急かして、津村の検査結果を真っ先に出させた。殺しても死なないようなあの頑健野郎が、どんな病気になったっていうんだ。検査結果から、一つの診断が下る。

 脳膿瘍。なるほど、頭痛がするわけだ。でもこの程度なら、手術ですぐ治る。

「ウフフフフ……」

 検査結果を見て僕が笑うのを、技師が不気味そうに見ている。僕は部屋を出て一人になると、ほくそ笑んだ。

「津村ぁ。おまえが病気になるとはなぁ」

 鬼の霍乱。屈強だけが取り柄の粗暴な男も、一生に一度くらいは、病気になることもあるらしい。それも虫歯や風邪ではなく、脳の病気とは! なんという巡り合わせだろう。津村の検査結果とカルテを眺め、笑いが止まらなかった。


 翌日、津村はノコノコと病院にやって来た。僕は彼を待たせず、すぐに通した。こいつは僕の受け持ち、最優先患者だ。誰にも渡さない。せっかく、こんな絶好の環境で再会したのだ。

 仇敵との逆転の再会。どうしてくれようか。

「先生。僕の病気は一体……?」

 津村が、少し怯えた顔で訪ねた。アハハ。怖がっている津村なんか、はじめて見る。

「脳膿瘍です」

 僕は正直に告げた。

「脳膿瘍……?」

「簡単に言うと、脳味噌が膿んでいるんです」

 僕は微笑んだまま言った。津村は蒼白になった。おやおや。僕には散々ひどいことをしたくせに、自分が痛い目に遭うのは怖いんだね、津村くん。

「心配なさることはありませんよ。頭を開いて膿を取れば治りますから」

 僕がそう言ってやると、津村は少し安心したような顔になった。単純だね。

 バァカ。そんな簡単に、救ってやるかよ。


 津村は入院することになった。もちろん、担当医は僕。彼の病室に赴くと、津村は一瞬嬉しそうな顔になったが、すぐに平常な表情に戻った。どうしたんだろう。

「調子はいかがです?」

 僕が声をかけると、津村は頭痛を訴えた。

「この頭痛、何とかなりませんか」

 顔をしかめて言う。僕は涼しい顔で答えた。

「痛み止めを渡したでしょう」

「でも、あんまり効かないみたいです」

 フフ。あんまりどころか、まるで効かないんだよ。おまえに処方した痛み止めは、薬じゃなくてただのうどん粉なんだから。

 まさか津村に復讐出来る日が来るとは。医者になって良かった。

 僕は医者で津村は患者、しかもここは精神病院。最高だ。津村に仕返しするために医者になったわけではないが、この舞台設定はまるでそのためにあるみたいだ。

「痛いからといって、これ以上薬を処方するのは、良くありません。なに、手術までの辛抱ですよ」

 僕は、ニッコリ笑って言った。津村はまだ顔をしかめている。僕をこれでもかと殴ったくせに、自分の痛みにはからきし弱いみたいだ。

 もっと痛がれ。僕がおまえから受けた苦しみは、まだまだまだまだ、こんなものじゃ済まないんだ。

 津村は休みたそうにしていたが、僕は彼に話しかけ続けた。休ませてなんかやらない。苦しむ津村を眺めていたい。

 話していて、現在津村は平凡なサラリーマンで独身、両親は他界して家族はいないということが分かった。といって天涯孤独というわけでもなく、恋人がいるそうだ。恋人のことを話す時は、少し自慢げに鼻の下を伸ばした。ふうん。そこそこ、幸せらしいじゃないか。

 いろいろ話しかけるが、津村はまだ僕が西崎克巳だと気づかない。本当に綺麗さっぱり忘れてやがる。この野郎。気づかせてやろうかと思ったが、何も知らないのをなぶるのも、面白いかもしれない。

「先生。僕は頭が痛いんですよ。休みたいんですが」

 いい加減僕の相手に嫌気がしたのか、津村は口を尖らせた。僕は話しかけるのをやめたが、立ち去らずにじっと見つめてやった。津村は、気味悪そうにしている。うん、やはりしばらく正体を明かさず、じっくり不気味がらせてやろう。

 若い女性が、病室に入ってきた。見舞客か、ちょっと華のある美人だ。彼女は僕に軽く会釈をした。津村のベッドの傍らに立つ。津村の恋人か。なるほど、津村が自慢するのも分かる。さっき僕が病室に入って津村が嬉しそうだったのは、恋人が来たと思ったからか。

 女くらいで有頂天になれるとは、おめでたい奴だ。

 女は嫌いだ。

 自分で言うのもなんだが、僕はけっこう、もてる。中学時代は全然だったけど。医者になってから、にわかにもてるようになった。女なんて、そんなものだ。僕が一番辛かった中学時代には鼻にも引っかけてもらえなかったのに。

 中学の頃、クラスの女子は皆、僕を嗤った。好きだった子まで、僕の裸を見て気持ち悪いと言った。今は、医者で病院の跡取りだと言うと、女たちは目の色変えて寄ってくる。相手の立場で、態度を百八十度変えやがる。こんな軽薄な女どもになんか用は無い。だから僕は、恋人を作らない。金目当ての女には、体目当てで対応する。

 すらりとした美人と精悍な体格と顔立ちの津村は、なかなかに似合いのカップルだった。無論僕は、二人を祝福するどころか忌々しく思いながら、病室を出た。

 津村に美人の恋人がいて、しかも仲が良いとは。腹が立った。

 津村に幸せなんか許せない。あいつの希望は全部壊してやる。女を奪うなんて、簡単だ。

 美人が病室から出てくると、僕は彼女を呼び止めた。

「すみません、津村さんのお友達の方ですか」

「ええ、そうですけど」

 美人は少し怪訝そうに振り返った。形の良い眉が陰る。津村が彼女に、僕のことを気味が悪いとでも言ったのだろう。僕は誠実そうな笑みを浮かべた。

「僕は津村さんの担当医の松永と言います。先ほどお話をうかがったところ、津村さんにはご家族がおられないようなので、どなたかの連絡先をいただけると有り難いのですが」

 会社の番号でも構いませんが、と警戒を解く言葉を添えておく。美人はそれならと、津村の会社の電話番号を教えてくれた。僕は頷き、

「ありがとうございます。それでは、何かあった際には、こちらのほうに連絡させていただきます」

「えっ、松永病院から、会社にですか」

 美人は少し狼狽えた。直後、ばつが悪そうに俯く。

「あの……病院のほうから勤め先へは、ちょっと……」

 精神病院から職場に電話などあっては、まずいのだろう。僕は気を悪くせず、理解のある表情を浮かべた。

「そうですね。患者のプライバシーにも関わりますし。でも、万一の時の連絡先がないのは、ちょっと困るなあ」

「あの、それでしたら、私のほうに連絡をください」

 美人は電話番号と名前を教えてくれた。

 小林美佳。はつらつ美人に似合う名前だ。


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