少年1
少年1
どくどくどく。
熱い。
血が、どくどくと、腕を伝って、風呂場のタイルに落ちる。真っ赤。
手首が痛い。そして熱い。畜生、簡単に死ねると思ったのに、いつまでも痛い。だけどこれ以上痛いのは嫌だから、もうどこも切りたくない。これ以上どこか切ったら、死んじゃう。
馬鹿だな、死ぬためにこんなことしてるのに、これ以上切ったら死んじゃう、だって。
自嘲を浮かべるも、すぐにその表情は、苦痛に歪む。
痛いよ、熱いよ、もう嫌、なんで最後までこんな苦しまないといけないの。これじゃ津村に殴られるより痛い。
死んだら楽になれると思ったのに。ちっとも楽になんないよお。こんなことなら切らなきゃ良かった、虐められても笑われても、生きてれば良かった。
痛みが、後悔になって襲う。
助けて。
「……」
目を開くと、朝の日差しが差し込んでいるのが見えた。だが、その爽やかさとは裏腹に、ねっとりと不快な汗で、肌が濡れている。僕はため息をついて起きあがった。
……嫌な夢を見た。
「これのせいか」
つけっぱなしになっているテレビからは、いじめ苦で自殺した高校生のニュースが流れていた。昨日は疲れていて、テレビを見ながら消さずに寝てしまった。おかげであんな夢を……。
「どうした、克巳」
顔色が悪かったのか、洗面所に行くために居間を通りかかった際、養父に声をかけられた。
「いいえ……なんでも……」
僕は力無く首を振った。養父は僕を睨み、言った。
「寝室から、テレビの音がするな。大方、つけっぱなしで寝ていたんだろう」
お見通しだ。肩をすくめる僕に、養父は言った。
「だらしのない」
朝から、注意されてしまう。
「すみません」
僕は頭を下げた。養父は厳格な人だ。横で養母が、忠実な家臣のように、夫に給仕している。こういう家で、僕は大学以降を過ごした。養い、学費を出してくれた養父母に感謝はしているが、それだけだ。疎んじられているわけではないが、愛されているわけでもない。もっとも、もう親の愛を欲する年齢は過ぎたから、構わないけれど。
はじめてこの家に来た時は、その立派さに驚いたものだ。次に、その厳格さに戸惑った。まるで一昔前の旧家のようだ。敷地は広いが、気質は窮屈な家。学生時分は反発も感じたが、もう慣れた。今となっては、養父の厳格さは、医師としては尊敬さえしている。
僕の部屋から、テレビのニュースが小さく漏れ聞こえてくる。部屋を出る際に消してくれば良かった。
「克巳。おまえはまだ……」
養父が口を開いた。まだ何か小言があるのだろうか。振り返ると、養父はやや沈痛な面もちで首を振った。
「なんでもない。行きなさい」
「失礼します」
小さく一礼し、僕は洗面所に向かった。
廊下を突っ切り、洗面所に着く。洗面所に赴く度に、ウンザリする。洗顔のために袖をまくるのだが、そうすると必ず、手首の古傷を見なければならない。もう十二年も経つのに、まだ痛いような気がする。
「畜生」
呻いて、手早く洗顔を済ませる。これだから朝は嫌いだ。とくに今朝は最悪だ。あんな夢を見て。正確に言うと夢ではなく、実際にあったことの追想だ。十二年前、中学三年の時、僕は自殺未遂をした。最悪の記憶。毎朝毎朝、洗顔手洗いの度に思い出しているのだから、夢でまで思い返したくないものだ。
転校してやっといじめから解放されたのに、津村の奴はどこまでも僕を苦しめる。この傷跡は、津村につけられたも同然だ。あいつ今頃どうしているのか。生きていれば二十六歳、僕は成長した津村の姿を想像した。初恋の少女の顔も朧になったのに、奴の顔は忘れない。十二年経っても、成人しても、会えば分かる自信がある。
手首の傷を見て、十二年前のトラウマを再確認、憎い敵を思い返して腹を煮やすという憂鬱なルーチンを終え自室に戻ると、まだいじめのニュースを報道していた。学校の屋上から飛び降り、即死だそうだ。
舌打ちして、テレビを切った。
死んだら、終わりだ。自殺した高校生に同情するよりも、不愉快になった。死ぬのは痛いだけだ、楽にはなれない。安楽死という言葉があるが、そんなものは存在しない。自分でも経験済みだし、今まで看取ってきた患者の死も同様。麻酔をきかせても、意識はなくても、体は苦痛の反応を示す。痛い痛い痛いと、体が、魂が泣くのだ。
「馬鹿」
画面が消えたテレビに向かって、低く吐く。それは死んだ高校生に言ったのか、十二年前の自分に言ったのか。命をないがしろにするなんて。クリスチャンではないが、自殺は最大の罪だ。
映像の消えたブラウン管に、自分の顔がうつる。十四歳の少年ではなく、二十六歳の青年の顔が見える。あの時死んでいたら、僕はチビで痩せっぽちの中学生で終わっていた。
「生き延びて、良かったな」
己の鏡像に呟く。ブラウン管の青年は、少しだけ笑った。




