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アメージング・グレイス13

アメージング・グレイス13


 ……。

 白い……。

 天国とは、白いものなのか……。

 ……。

 ピッピッピッピッ……。

 規則正しい、電子音。

 ……。

 おかしいな。

 なんで、天国で電子音がするんだ。

 ここは……?

 鈍い頭が、ゆっくりと巡っていく。

 白い天井。白い壁。白いベッド。白いシーツ。

 何もかもが、白い。

 ここは……病室?

 僕は、病室のベッドに寝かされていた。電子音は、傍らの医療器具から発されている。

 僕は、どうなったのだろう。

 小教会で、少女のためにアメージング・グレイスを歌った後の、記憶が無い。きっと、壇上で、衆目の前で、倒れたのだろう。それで、病院にかつぎ込まれたのか。

 死ぬかと思ったけれど、助かったんだ……。

 喜びというより、柔らかい安堵が広がる。死ななくて良かったなと、じんわり思う。死ぬと覚悟した時、恐怖も未練も無かったけれど、生き返ったのは、やはり嬉しい。

「生きてる……」

 自分の呟きに、僕は息を飲んだ。

「これは……」

 声を出してみて、驚く。

「これが、僕の声?」

 それは、慣れた甲高い声ではなく、風邪を引いたような、低い声。成人男性ほど低くはない、けれど幼児のように高くはない。

 変声期にさしかかった、少年の声。

「……」

 僕は、ゆっくり腕を動かした。ひどく腕が重く感じられる。持ち上げた腕は、細かった。僕は指を、自分の喉にあてがった。

 かすかに、喉仏の感触があった。

 ……。

 混乱。

 どうなってる?

 死ぬと思ったのが生き返っただけでも驚きなのに、声まで変わっている。寝ている間に、別人になったみたいだ。

 声変わり? 声変わりか?

 戸惑い。

 僕は頭に腫瘍があって、手術をしなければ二次性徴は来ないはずだ。声変わりなんか、しないはずなのに。

「あー……」

 声を出してみる。やっぱり、低い声。

「あら! 居谷くん、気がついたの!」

 女の人の声に目をやると、看護婦さんが立っていた。

「今、先生を呼んでくるわね」

 看護婦さんは、慌てたように駆け出していった。

 先生? 僕の頭は、まだ朦朧としていた。先生って、竜野のことだろうか……。

 しばらくしてやって来たのは、竜野ではなく、若い医師だった。

「意識が戻ったんだね」

 青年医師は、感心したように言った。

「先生。僕は一体……?」

 僕は、何がどうなったのか、医師に訊ねた。自分の声が、他人のようだ。

「ここは、松永病院。頭や心の病気を専門に扱う病院だ。君は救急車で他病院に運ばれたが、脳腫瘍と分かりそこでは手に負えないというので、ここに回されてきたのだ」

 医師は、僕が急患で運ばれてきて、手術をしたのだと言った。病気はかなり進行していて、手遅れになるところだった、もう目を覚まさないかと思ったと言われ、なんでこんなになるまで放っておいたのだと、叱られた。

 ……。

 ああ。僕は、手術を受けたのか。それが成功して、正常な発育が始まったのか。寝ている間に、喉仏が出来たのか。

 ……。

「ふ」

 僕は、寂しく笑った。

 僕のソプラノは、失われたのだ。

 病気の声。異常な声。でもそれが無くなったことは、少なからずショックだった。唯一の取り柄が、無くなってしまった……。

 こんな声になったのでは、歌手は廃業だ。竜野は、僕を放り出すだろう。養父の元に戻される。聖歌隊だって、置いてくれるかどうか……。

「こんなことなら、あのまま幸せに死んでいたほうがよかっ」

 言葉の途中で、殴られた。痛みよりも、驚きで医師を見返す。

「死んだ方が良かった。医者の前で、そんなことを言ってみろ。殴り殺してやる」

「……」

 一瞬、医師の気迫に押されたものの、しばらくして僕はちょっと首を捻った。

「殴り殺すって……矛盾してませんか」

「うるさい。まったく、こんな患者は、さっさと退院してもらわないと」

 青年医師は不機嫌に席を立った。一人になり、僕は殴られた頬をさすった。痛いけれど、養父に殴られたような痛みではなかった。青年医師は、僕を怒ったのではなく、叱ったのだ。

 ……。

 僕は、良い医者に当たったみたいだ。

 頑張ってみよう。

 僕は、目頭を押さえながら思った。

 これからのことを思うと、絶望で死にたくなる。でも、頑張ってみよう。でないと、またあの医者に殴られるから。


 僕が長い昏睡から目を覚ましたことが、家族に連絡されたのか、翌日、養父と母がやって来た。この二人は、僕が寝ていた間、一度も見舞いに来なかったそうだ。

「やっと気がついたか、このごくつぶしが」

 養父の第一声が、これだった。僕は俯いた。

「くたばっていればいいものを、生き返りやがって。まったく、さっさと退院しろよ。入院費、いくらかかると思ってんだ。竜野の野郎は、金がないとぬかしやがる。いい気になって買い物して、火の車なんだとよ。毎日、取り立てに追われてやがる。冗談じゃないぜ、こんな餓鬼押しつけやがって」

 僕の稼ぎをあてにしていた竜野は、僕の声が使えなくなって、たちまち貧窮したようだ。かすかに、ざまみろと思った。それにしても、養父の罵詈雑言には、今更ながら傷つく。

「おいこら、聞いてんのか」

 養父が、拳をあげた。

「お、お父さん」

 僕は、すくみながら言った。

「お父さん、身長は何センチ?」

「なんだあ?」

 僕の唐突な質問に、養父は拳を止めた。

「僕は、手術を受けて、寝ている間に、四センチ伸びたよ」

 僕は、少し反り返って言った。養父は鼻で笑った。

「それがどうした。少々伸びたって、チビはチビだろうが」

「今はね。でも、これから僕はどんどん大きくなる。高校男子の平均身長は、百八十二センチ。お父さん、百七十なかったよね。僕は今に、あんたを追い抜くよ」

 高校男子の平均身長が百八十二というのは、口からでまかせだ。僕はシーツを握りしめ、精一杯の虚勢をはった。頑張るんだ。

「お父さんは年を取る。僕は成長する。僕があんたを追い抜いた時、どうなるか、楽しみだね。僕、殴られた回数、数えてるよ」

「……」

 養父は、あげた拳を下ろした。

「……くそったれが。帰るぞ!」

 養父は、荒々しく席を立った。母は、慌ててついていった。

 静かになった。僕は、ほっとため息をついた。

 退院する頃には、僕は中学を卒業だ。そうなったら、家を出て、夜学にでも通おう。ほんの少し、希望が見えたような気がした。

 静かな病室は、閑散としている。花や果物といった類は、一つもない。

 誰も、見舞いにも来てくれなかったんだろうか。

 声を失った僕は、誰にも振り向いてもらえない。

 ……分かっていたことだけれど、寂しくなる。僕が、命を削って歌った歌。誰かの胸に届いていたのだろうか?

 寂しい無機質な病室を見ていると、僕の歌は誰の心にも残らなかったのではないかと思えてくる。

「グレース……」

 呟く。赤いカチューシャの少女。僕のグレース。彼女も、僕の元を去ってしまうのだろうか。

 ……。

 たまらない寂寥が襲った。

 グレース。グレース。グレース。彼女が去る。いなくなる。魂の半分を削ぎ落とされるように感じた。

 おかしい話だ。妙な恋だ。

 名前も知らない、挨拶すらしたこともない少女に、命をかけるほどの愛情を募らせるなんて。

「……泣いてるの?」

 静かな声。看護婦さんだろうか。僕は涙を拭い、顔をあげた。

 カチューシャの少女が、立っていた。

「……」

 呆然となる。なぜ、彼女がここに? 少女に涙を見られた羞恥も忘れる。嬉しさよりも、戸惑いが襲う。

「グレース……」

 僕は言った。彼女の名を知らないので、他に呼びかけようがないのだ。言ったあとで、口を押さえた。彼女は、この声を聞いて、どう思うだろう?

「グレース?」

 彼女は、首を傾げた。その仕草に僕は、可愛いとときめいた。

「グレースって、アメージング・グレイスのグレース?」

 彼女が訊く。僕は頷いた。はじめて、この子と会話を交わした。戸惑いと緊張と混乱と……ぐるぐるになってしまう。

「あら。あなた、また来たのね」

 看護婦さんが入ってきて、言った。カチューシャの少女にウィンクして、

「良かったわね。あなたのおまじないが、効いたみたいよ」

 少女は微笑んだ。その笑顔に、またときめく。でも、さっぱり訳が分からない。

「あのう……」

 僕が女性二人に声をかけると、看護婦さんが振り向いた。

「ああ、居谷くんは、昏睡してたから、知らないのね。ガールフレンドが、毎日見舞いに来てたわよ」

「……」

 カチューシャの彼女は、毎日、寝ている僕の元に、通っていたのか? でも、ガールフレンドって……。

「寝ている居谷くんの耳元で、彼女はアメージング・グレイスを歌っていたの。きっと彼は目を覚ますからって……。愛の力かしらね」

 看護婦さんは、からかうように笑った。

 ……。

 僕は、少女を見つめた。

 届いていたんだ。一言も話をしなくても、僕の歌は、思いは、ちゃんと彼女に届いていたんだ。

「君……」

 少女の顔が、パッと赤くなった。

「また聴かせてね」

 そう言って、彼女は逃げるように、病室を出ていった。

「あらら。せっかく彼氏が目を覚ましたんだから、ゆっくりしていけばいいのに」

 看護婦さんがまた、ひやかすように言う。

 驚きと戸惑い。やがて、切ないほどの歓喜が、胸にせりあがる。

 彼女は、また聴かせてね、と言った。僕の声が変わったのを聞いても、またアメージング・グレイスを聴かせてと。

 ああ。

 今度こそ本当に、一筋の光がさしてきたように思った。

 暗闇は払われた。

 消えることのない光が、照らされた。

「ねえ、彼女の名前は、なんて言うの?」

 看護婦さんが、僕の肘をつついた。

「知りません」

 僕の答えに、看護婦さんは目を丸くした。

「冗談。ガールフレンドでしょう」

「知りません。話をしたのは、さっきのがはじめてです」

「嘘ぉ……」

 じゃああの子は何者なのよと、看護婦さんは唸った。

 僕は彼女のことを何も知らない。彼女も僕のことを何も知らない。

 それでも僕らは、互いのアメージング・グレイスなのだ。



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