アメージング・グレイス10
アメージング・グレイス10
「先生、これ……」
僕は、震える手で、書類を指さした。病院の再検査、竜野先生は何でもないと言ったけれど……僕は、悪性脳腫瘍だったのか? だから、頭痛がいつまでも治らなかったのか?
「居谷……」
先生は、肩を落とした。ため息をつく。
「何でもないんだ。心配するな。薬を飲めば、治るから」
取りなすように言う。先生が病気のことを隠していたのは、僕を気遣ってのことなのだろうか。けれど僕は、先生の優しさに嬉しくなるよりも、自分の病気に怯えた。
「まったく、どこまでおめでたいの坊や。竜野が病気のことを言わなかったのは、あんたを気遣っていたからなんかじゃないわ。お金のためよ」
青木は笑って、外車を一瞥した。僕も、新車に目をやった。僕の契約金で買ったという、高級車。
……。
本当なんだろうか。竜野先生は、僕の体のことよりも、お金が……。
「悪性腫瘍は、薬なんかじゃ治らない。手術しないと、あんたは死ぬのよ」
僕は車から青木に視線を転じた。死ぬ?
「居谷、令子の言うことなんか、耳を向けるな」
竜野先生はそう言うけれど、僕は青木から目が離せない。
「死ぬって……嘘だ」
そんなに重い病気だなんて。
「信じても信じなくても、どっちでもいいわ。ただ、自分でヘンだと思わない?」
「何が」
「そのちっぽけな体やキンキン声。成長が止まってしまったのは何故かって、思ったことないの? あんたがいつまでも貧弱で声変わりしないのは、脳腫瘍によるホルモンバランスの失調が原因なのよ。腫瘍で成長が阻害されて、二次性徴が来ないわけ」
「……」
思い当たる節に、僕は口をつぐんだ。伸びない身長、つかない筋肉、幼いままの声。養父から解放されても、治らない頭痛。
脳腫瘍。ホルモン失調。病気。
ぴたりぴたりと当てはまる。
「僕は……死ぬの?」
自慢の高い声が、薄ら寒く聞こえた。これは、正常な声じゃない。病気の声なんだ。
「今のうちなら、手術で治るわ」
青木嬢が微笑んだ。
「治る……助かるの?」
僕は、すがるように青木に訊いた。
「治るけれど、そうなると止まっていた成長が正常になるから、背が伸びて声が太くなるわ。もちろん、汚いだみ声じゃ、歌手として使えない。だから竜野は、病気のことを黙っていたのよ。高い声を保たせるためにね」
「……」
「笑っちゃうわよね。皆、病気の子供の声を、ありがたがって聞いてるのよ」
青木は笑った。この人は、僕のことを心配しているのではなく、残酷な真実を突きつけて楽しそうに笑っている。竜野先生への腹いせか、僕への憎しみか。
僕は、青木から竜野先生に目を移した。
「なんだ、その目は?」
竜野先生から、狼狽の色が消えた。代わりに、蔑むように僕を見下ろす。
「ほら、レコーディングに遅れるぞ。早く車に乗れ」
「先生……病院に」
「何だ? まさか、手術を受けるつもりか?」
目を剥いて言う。先生の反応に、僕は息を飲んだ。何を言ってるんだ、竜野先生は。
「レコーディングよりも、病院に行かないと」
「何を言ってるんだ、居谷」
先生は、僕を覗き込んだ。
「自分が何を言っているのか、分かっているのか。おまえは、その声が無けりゃ、何の価値もないんだぞ」
「え……」
何の値打ちもない。先生の言葉に、僕は息を飲んだ。
「令子も言っていただろう、手術したら声が太くなると。そうなったら、おまえに何の値打ちがあるっていうんだ?」
「せんせ……」
僕は、信じられない思いで、先生を見返した。先生は、何て言ったんだ?
先生は、優しい表情から一転、氷のように冷酷な顔になっている。
「おまえなんか、チビで泣き虫で頭も悪い、何の取り柄もない劣等生じゃないか。そんなどうしようもないゴミみたいなおまえが、有り難くも世間に認められる声を授かったんだ。感謝しろよ」
取り柄がない。ゴミ。あまりの言われように、僕は立ちつくした。先生の、保護者面の優しい仮面が剥がれていく。
「私が、何の見返りもなく、ただ同情だけでおまえの後見人になったと思っているのか? 冗談じゃない、おまえみたいなウジ虫野郎の面倒なんか、誰が好き好んで引き受けるか」
先生の罵倒が、耳を流れていく。頭が痛む。先生と養父が、重なる。
「手術など許さない。おまえには、稼いでもらわなくちゃな」
先生が薄く笑った。養父の酷薄な薄ら笑いを思い出す。
「そんな……そんな……手術しなきゃ、僕、死んじゃうよ……」
「おまえなんか、別に死んだってかまわないじゃないか」
「……」
「だけど、死ぬ前に稼いでもらわないとな。ほら、車に乗れ」
なんてことだろう……。車に揺られながら僕は、自分の病気と竜野先生の本性に、呆然となっていた。頭が痛い。頭が痛い。
痛む頭に、竜野先生の言が乱舞する。
おまえは、その声が無けりゃ、何の価値もないんだぞ……
レコーディングが終わり、竜野先生は音楽会社の人と、コンサートの話をしていた。竜野先生と音楽会社のやり取りの脇で、僕は頭を抱えていた。
痛い……痛い……痛いよ……。
「居谷、帰るぞ」
話がまとまったのか、先生が席を立った。
「先生……病院に……」
「まだ言ってるのか。今、コンサートの契約が決まった所なんだ。病院なんか行けるわけないだろう」
先生は僕を引きずり、高級車に乗せた。
「さあ、次はボロアパートを出て、マンションに移ろうかな……」
先生は、口笛を吹きながら、車を発進させた。
「せんせ……コンサートが終わったら、病院に、連れてってください……」
「嫌だね」
「じゃあ、一人でも、病院に行きます……」
途端、先生は急ブレーキを踏んだ。僕は転がりそうになった。
「居谷」
先生が、怖い顔で振り返った。僕は縮んだ。先生は僕の襟を掴んだ。
「居谷。病院なんか勝手に行ってみろ。許さないからな」
「でも、このままじゃ、僕、死んじゃう」
「ああ、死ねばいいだろ。ゴミが消えて、清々する」
ひどい。養父にだって、ここまで言われたことはない。
「手術を受けたら、俺はおまえを養父の元に叩き返す。歌えないカナリヤを置いていても仕方がないからな。その声が無ければ、おまえなんかクズだ」
「……」
「いいぜ、病院に行きたければ、行けよ。だがそうなったらおまえは、鬼養父の元に逆戻りだ」
あの養父の元に返される。僕は目を見張った。また、殴られ罵倒される生活に戻される。
「居谷よ」
先生が、気味悪い穏やかな声で言った。
「その声を失ったら、おまえなんか誰も振り向きやしないぞ。クズのおまえが皆にちやほやされているのは、なぜだと思う? その声に、皆、惹かれているんだ。その唯一の長所が無くなれば、みいんな、おまえから離れていく。以前の惨めな劣等生に逆戻り。そうなったらもう、生きていても仕方がないだろう?」
「……」
「凡庸な人間になって生きながらえるよりも、人々に感動を与えて芸術を遺して死んでいくほうが、幸せじゃないか。そうだろう?」
「……」
芸術を遺して云々はともかく、僕は、手術を受けて、美声が失われた後のことに、慄然となった。今までは、ただただ死の恐怖に怯えていただけだったけれど、この声が低くなったら、もう誰も、僕のことを認めてくれない。讃えてくれない。
美声が無くなれば、僕は惨めな劣等生に逆戻り。誰にも認められず、踏みつけにされ唾を吐かれる、救いのない存在に逆戻り。
……!
僕の総身に、氷柱のような悪寒が走った。
心臓が苦しい。息が詰まる。目の前が暗くなる。
死ぬよりも恐ろしい、真っ黒い恐怖が、襲った。
声を失えば、僕は何もかも失う。
僕を売り出す音楽会社。聴衆。拍手。羨望するクラスメート。全部離れていく。
それは、息が止まるような恐怖だった。悪性脳腫瘍の書類を見た時よりも激しい恐怖。
賛美を失う。存在を否定される。
「いや……」
僕は、自分の肩を抱いた。震えていた。
「いや……いや……いや……」
褒めてほしい。認めて欲しい。やっと手に入れた場所。失ってしまう。
「いやあああ……」
甲高く叫び、僕は気を失った。




