アメージング・グレイス9
アメージング・グレイス9
CD発売の前に、僕の歌がラジオに流れた。宣伝と、世間の反応を見るためだ。アメージング・グレイスにリクエストが殺到した。他の歌もリクエストされたけれど、アメージング・グレイスが一番、反響が大きかった。
ラジオ放送があった翌週、またミサは大入りだった。知らない人ばかりだけれど、立原らクラスメートや知った顔もちらほら見える。皆、クリスチャンなのではなく、好奇と期待から、僕を見に来たようだ。
「ラジオを聞いて、少し遠いけれど、生で聞きたいと思って来たんだ」
「まだ声変わりしてないの?」
「CDはいつ出るの?」
集まった人たちが、僕に群がって口々に言う。
すごいや。僕は、有名人なんだ。僕は、得意になって歌った。アメージング・グレイス以外の歌も、随分上手くなった。皆が拍手する。どんなものだ。
嬉しくてたまらない。自分は才能があるんじゃないかとさえ思う。劣等生だなんて、とんでもない。クラスメートが何だ、いじめっ子が何だ。あいつらは僕をバカにしたけれど、今注目を浴びて賞賛されているのは、他でもない僕じゃないか。取り柄がないのは、立原たちのほうだ。
有頂天になっていた僕は、突然水をさされた。聴衆が聞き入っている中、一人席を立った者がいたのだ。
少女だった。
ミサによく顔を出す、例の赤いカチューシャの美少女だ。皆が拍手するのに、彼女はどういうわけか、途中で出ていってしまった。用事があったのだろうか。それともまさか、僕の歌が気に入らなかったのか?
僕は、中座した少女のことが気にかかった。僕の歌の何が気に入らないっていうんだ? 自信がつき始めていた僕は、少女の態度を不愉快に思った。
ミサが終わり、僕は神父に少女のことを訊ねてみた。
「彼女は、クリスチャンではないよ」
意外な言葉が、神父から帰ってきた。
「よく教会に来るけれど、一言も喋らない。家庭に問題を抱えているらしい」
「問題って……?」
「さあ。何しろ、話さないから」
「……」
家庭に問題か。僕の家庭も、問題だらけだった。あの子も、親兄弟に虐められているんだろうか。
僕は、名前も知らない少女に、親近感を持った。
そうなるとますます、どうして、あの子は中座してしまったんだろうと、気になって仕方がなかった。不愉快さは消え、焦燥に似た不審が、わきあがる。神父から聞いた話では、少女はいつも一人で、友人はいないようだった。
席を立ったのは、友達と約束があったから、というのではなさそうだ。彼女はたいてい、ミサには最後まで座って大人しくしているという。
なぜ、あの時に限って、中座してしまったんだろう。考えれば考えるほど、彼女が席を立ったのは、僕に不満があったように思えてならない。
どうして……?
皆が僕の歌を褒めてくれるのに、あの子は気に入らなかったんだろうか。なぜだ。司教の前で、はじめてアメージング・グレイスを歌った時は、最後まで聞いてくれたのに。
カチューシャの少女のことを除けば、僕の生活は明るかった。ラジオ放送の好評に目を付け、いくつかの番組で、僕の歌を採用したいと申し出があった。怖いくらい、調子よく進んでいく。
ただ一つの心配は声変わりだけれど、その気配はまったく無かった。この声は、いつまで保つのだろう。
そんなことを考えていると、竜野先生がアパートに戻ってきた。手に紙袋を持っている。開けてみると、大量の頭痛薬だった。
「頭が痛いと言っていただろう」
そう。養父から離れて、ストレスから解放されたはずなのに、頭痛は続いている。先生は、心配してくれていたようだ。僕は頭痛薬を受け取りながら、病院で再検査を受けたことを思い出した。病院から連絡はない。どうなったんだろう。
「何でも無かったってさ」
先生は目を逸らして言った。検査の結果、とくに異常はなかったそうだ。
「でも、頭痛は治らないし……」
僕は首を捻った。いつまでも続く頭痛。どこか病気なんじゃないだろうか。先生は気をほぐすように言った。
「環境が変わって、緊張してるんだよ」
「でも」
「居谷」
先生は真顔になった。
「心配するな。何もかもうまくいっているじゃないか。頭痛くらい何だ」
「……」
「明日は、レコーディングだろ。薬を飲んで、早く寝ろよ」
レコーディングの日の朝。
アパートを出ると、驚いた。大きな外車が、止まっていたのだ。ピカピカの新車。先生がキーを取り出した。
「先生の車なの?」
僕は目を丸くした。公務員の安月給で、こんないい車を持っているなんて。木造アパートには不釣り合いな気がした。
「居谷くんの契約金で買ったのよねえ?」
声に振り向くと、青木さんが立っていた。彼女の登場に、僕は嫌な気分になった。何なんだ。教会だけじゃなく、アパートにまで嫌みを言いに来たのか?
「何の用ですか?」
僕は口を尖らせて、青木さんに言った。
「あら、口答えするようになったの。何言われても俯いて我慢していた情けない男の子が、ちやほやされて、図に乗っているようね」
青木さんは軽蔑したように笑った。頭に来た。
「なんだよ。何しに来たんだ」
「あらあら、そんな乱暴な口がきけるようになったの。よっぽど、有頂天になっているみたいね。おめでたいこと」
「おい、令子。おまえとはもう、別れたはずだろう」
竜野先生が口を挟んだ。僕は驚いて先生を見上げた。先生の別れた恋人って、青木嬢のことだったのか。竜野先生みたいな親切な人が、よくこんな性悪な女と付き合っていたものだ。
「そう。私と別れて、その可愛い坊やに乗り換えたのよねえ。さぞ、可愛がって大切にしているんでしょうね」
青木が(もうこんな奴、呼び捨てで十分だ)、憎々しげに言う。そんな言い方をすると、僕と先生が男同士でヘンな関係にあるみたいじゃないか。まさか青木は、僕が竜野先生を寝取ったとでも思っているのか? 冗談じゃない。おぞけがした。でもこの女なら、そういう思いこみもありうる。
「青木さん。妙な勘ぐりはやめてください。あなたが竜野先生に振られたのは、あなた自身に問題があったからだ。僕のせいじゃない」
こんな性格の悪い女、誰と付き合ったって、振られるに決まってる。僕だって嫌だ。竜野先生は、よく我慢していたものだ。人格者だなと感心する。
「竜野が人格者? これを見ても、そう言っていられるかしら」
青木は、封筒を差し出した。僕も竜野先生も目を見張った。それは、竜野先生の部屋にあった封筒だった。僕が、掃除しようとして怒鳴られた書類だ。
「令子。どうしておまえがそれを」
答えを示すように、青木は合い鍵を見せた。恋人同士だった頃に拵えたものだろう。それで、勝手に中に入って、物色したというのか。僕は、青木の非常識に呆れた。
「空き巣泥棒みたいな真似しやがって」
竜野先生が青木に飛びかかった。青木が悲鳴をあげる。
「なによ! 私が空き巣なら、あんたは人殺しじゃない!」
高い声でヒステリックに叫ばれると、耳にくる。先生は青木の髪を引き上げているし、青木はソプラノの声で泣き叫んでいるし、すごい喧嘩だ。
止めようかどうしようか、僕は狼狽えた。僕は青木が嫌いだけれど、女の人が力任せにねじ伏せられている光景は、見ていて気分のいいものじゃない。竜野先生が怒るのも分かるけれど、ちょっとやりすぎじゃないかしら。
青木の手から、封筒が落ちた。僕はそれを拾った。
「よせ、居谷! 見るな!」
先生が、青木から手を放して、僕に向かってきた。僕から封筒をもぎ取る。けれど勢いが強すぎて、封筒の中身が散らばった。
「ああ……」
先生が、急いで書類をかき集める。僕は、呆然と広がった書類を見ていた。
それは、病院の検査結果だった。
「脳腫瘍」「悪性」の文字が、僕の網膜に飛び込んできた……。




