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アメージング・グレイス7

アメージング・グレイス7


 本番の日がやって来た。大聖堂というだけあって、小教会とは比較にならない。ホールといっていいような、立派な舞台が用意されていた。

 舞台袖から、ちらと見ると、小教会の時とは違って、席は埋まっていた。聖職者だけではなく、一般の人も混じっているようだ。あんな大勢の前で、今度は一人で歌うのか。緊張した。

 僕は、右手右脚、左手左脚を同時に出しながら、ぎくしゃくと舞台にあがった。観客席から、失笑が漏れた。

「あれが十五歳? 小さいね」

「あの年でソプラノを出すそうだ」

 そんな囁きと共に、珍しい見せ物を見るような、好奇に満ちた視線が刺さる。竜野先生のオルガンが始まった。僕は唾を飲んだ。

 僕が歌い出すと、観客から「ほう」と驚いた声があがった。十五歳の少年のソプラノに、驚いたのだろう。僕は、客席の反応を窺いながら、歌った。これが成功すれば、僕は聖歌隊の正式メンバーになれるんだ。

 どうか、認めてください。お願いします。そんな思いを込めて、必死に歌った。観客たちは僕の歌を聞き入っているようだけれど、最初の司教の時のように、口を開いて呆然となるほどの者はいなかった。駄目なんだろうか。駄目なんだろうか。

 不安なまま、曲が流れていく。

 五曲すべて終わり、僕は怯えながら客席を見た。まばらな拍手。これでは、成功といえない。目の前が暗くなった。

「居谷。終わったんだぞ」

 いつまでも舞台に立ちつくしている僕に、竜野先生が声をかける。それでも僕は動かない。動けないのだ。

 これでは、終われない。これで終わったら、聖歌隊に入れない。行き場が無くなる。暗闇にさした光が、消える。

 いつまでも突っ立っている僕に、怪訝そうな目を向け、観客らが帰り支度を始める。

 待って。帰らないで。僕の歌を聞いて。僕を認めて。

「居谷?」

「皆さん、待ってください」

 僕は、帰りかけている司教たちに、呼びかけた。司教らは、何事かと振り向いた。

「最後に一曲……聞いてください」

 予定にない僕の行動に、竜野先生は目を丸くした。

「何を言ってるんだ、居谷」

 僕は、先生にかまわず、歌い出した。伴奏なしで歌うのは、もちろん、アメージング・グレイス。

「Amazing grace……」

 歌い始めると、観客の表情が変わった。

「'Twas grace that taught my heart to fear,

And……」

 聖堂に、僕の声だけが響く。一同、動きを止めて、僕に注視する。

 観客の反応ばかりを窺っていた僕だけれど、アメージング・グレイスを歌ううちに、客の反応はどうでもよくなってきた。絶望と苦悩。救いへの渇望。思いのすべてを込めて、歌う。

「……Than when we've first begun」

 歌いきり、ようやく僕は、まわりを見る余裕が出来た。

 観客は、誰も帰っていなかった。唖然としたように、僕を見ている。

 そして。

 割れんばかりの拍手が、僕を包んだ。


「たいしたものだ! すごいぞ!」

 大聖堂での成功に、竜野先生は僕よりも喜んでいた。拍手などはじめて受けた僕は、ただ戸惑うばかりだ。嬉しすぎて、大聖堂からどうやって出たのか、覚えていない。僕なんかが、人々に拍手されたなんて、夢みたいだ。夢なら、一生目覚めたくない。

 小教会に帰ってきた僕と竜野先生を、聖歌隊の皆が迎える。そう、僕は、晴れて正式メンバーになったのだ。

 やっと、暗闇から抜け出せたように思った。

 とはいえ、気がかりが一つ。そう、青木嬢のことだ。

 聖歌隊の人達は、大聖堂での成功を聞いて、僕を笑顔で迎えてくれた。青木さんは一言もなく、出ていってしまった。

「明日の新聞に、今日のことが載るぞ」

 竜野先生の言に、僕は目を白黒させた。なんでも、大聖堂には記者も来ていて、僕の歌のことを記事にするのだそうだ。記者なんか来ていたっけ?

「おまえは呆けていて、覚えていなのだろう。受け答えは全部、私がやったのだ」

 竜野先生が上気した顔で言う。だから、先生は興奮しているのだろうか。

 新聞に載る……ちょっと、信じられない。

「記事になったら、来週の日曜日には、きっと大勢詰めかけてくるわね。この寂れた教会が、活気づくわ」

 うわあ。なんか、大変なことになったような。でも、でも、嬉しい。

 嘘みたい。夢みたい。聖歌隊のメンバーに褒められるのはもちろん、教会の神父も、僕を抱きしめてくれた。皆、嬉しくてたまらないようだった。

 僕は、鼻歌でも出そうな上機嫌で、家に帰った。こんなに気分がいいのは、久しぶりだ。

「なんだ、浮かれやがって。まさか、公演が好評だったとかいうんじゃないだろうな」

 養父が、面白くなさそうに言う。僕は嬉しくて、迂闊にも彼の前で笑顔になってしまった。途端、殴られた。

「いい気になるな! おまえなんか、隅っこで泣いてりゃいいんだよ。ウジ虫野郎が、ちょっと褒められて有頂天になりやがって……」

 不機嫌に言うと、唾を吐きかけられた。嬉しい気分が、いっぺんに沈む。

 どうして、この家は、息子の成功を喜んでくれないのか……。喜ぶどころか、殴られるなんて。でも僕は何も言わず、ただ項垂れた。養父に逆らうなんて勇気はない。

「もう、教会には行くな。歌なんか、歌うなよ」

 養父の言葉に、僕は顔をあげた。

 歌うなだって? 僕から、たった一つの取り柄を奪うというの?

 僕は、信じられない思いで、養父を見た。養父が、冷たく見返す。

「なんだ、その目は。文句あるのか」

「……」

「今度、歌なんか歌ってみろ。ただじゃ済まさないからな」

「……いやだ」

 考えるよりも先に、言葉が出ていた。僕は慌てて、口を押さえた。

「なに?」

 養父の眉が持ち上がった。僕はすくんだ。

「何か言ったかな、晃司? 今、いやって言ったのかな?」

 養父が、薄ら笑いを浮かべた。この男は、笑顔になると怖いのだ。僕は震え上がった。

「晃ちゃんは、良い子だな? お父さんの言うことはきくな? いやなんて言わないよなあ、晃司?」

 ニヤニヤ笑いながら、指を鳴らす。僕は、自分の顔が蒼白になるのが分かった。

「歌をやめると言え」

 養父が、僕の頬をぴたぴた叩きながら言った。僕は唾を飲んだ。怖い。怖い。

 お母さん……。

 助けを求めるように母を見ると、奥の部屋に引っ込んでしまった。今更だけど、目眩がした。誰も助けてくれない。

「どうした、晃司。俺の命令がきけないのか」

 黙っている僕に、養父が苛立った声をあげる。

「晃司」

「……いや」

 僕は、ありったけの勇気を振り絞って言った。

 養父の顔から、笑みが消えた。

 次の瞬間、僕は吹っ飛んでいた。

「この野郎! ウジ虫のくせに、逆らうんじゃねえよ!」

 怒鳴り、養父は狂ったように僕を殴り蹴る。

「血の繋がらないガキを、食わせてやってんだぞ! なのに、言うことがきけないのか? このウジ虫が! 糞野郎が! ふざけんな!」

 殺される……本気でそう思った。でも僕は、歌をやめるとは言わなかった。体を縮め、本能的に頭を庇いながら、養父の激高にじっと耐えた。耐え続けた。


 教会に着くと、聖歌隊は新聞の話でもちきりだった。

「記事、読んだ? 竜野先生、自分の売り込みばかりしているわよ」

「公演の成功を、自分の手柄みたいに話してる……」

 記事を読んでいないけれど、扉越しに聞こえる会話に、僕は少し首を捻った。そういえば、記者への受け答えは、竜野先生がしたと言っていた。竜野先生は、記者に、自分のことばかり話していたんだろうか……。

 僕が入ってくると、聖歌隊の人達は目を開いた。

「どうしたの居谷くん?」

 僕が傷だらけで現れたので、驚いたらしい。養父に殴られた後、手当もされなかったのだ。

 昨日の暴行は、いつもにも増してひどかった。僕が逆らったから、養父は頭に来たのだろう。横になっていたほうがいいのは分かっていたが、僕は痛む体を引きずって、教会に来たのだ。あの家では、休めない。

 体が、熱っぽい。朦朧となる。

「大丈夫?」

 聖歌隊の人達が、心配そうに駆け寄る。

「ちょっと、休ませてください……」

 ぐらぐらする。怪我をした所に動き回り、熱が出てきたようだった。休みたい。ここなら、安心して眠れるだろう。

「居谷」

 竜野先生がやって来て、目を見張った。

「また、養父にやられたのか?」

 僕は答えなかった。

「病院に、行ったほうがいいな」

 先生の呟きに、僕は目を上げた。病院だなんて。そんなに大事にするほどじゃない。

「大丈夫です。いつものことだし、寝ていれば治ります」

「そんな怪我で何を言ってるんだ。立てるか? 救急車を呼ぼうか?」

 竜野先生が、気遣うように言う。僕は戸惑いながらも、嬉しくなった。僕のことを心配してくれる。怪我を気遣ってくれる。なんていい人なんだろう。竜野先生は養父と同年代くらいだけれど、養父とは大違い。さっき、竜野先生の陰口を聞いたけれど、記事だから誇張して書いてあったんだろう。

 僕は、竜野先生に担がれるようにして、病院に行った。手当を受けたけれど、医者は再検査したいと言った。何だろう。いつも寝ていれば治る怪我だけれど、今回はひどかったんだろうか。


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