表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/52

アメージング・グレイス6

アメージング・グレイス6


「どうだったい、発表会は」

 家に帰ると、養父が引きつったように笑って訊ねた。もう来なくていいと言われたと言うと、養父は大笑いした。

「ほうらな。おまえなんか、何やったって、うまくいかないんだよ。ちょっと褒められたくらいで、いい気になるんじゃねえ。バカが」

 養父の嘲笑が刺さる。頭が痛い。早く休みたかった。でも、片づけ物が山のように積んである。僕は頭を押さえながら、片づけた。母は見ているだけだった。

 惨めで救いのない生活が、戻ってきた。この暗闇は、どこまで続くんだろう。

 死にたいと思いながら、惰性で生きている僕の元に、竜野先生が再び声をかけてきたのは、発表会から数日後のことだった。

「居谷。また、歌ってくれないか?」

 僕は、嬉しくなるよりも驚いてしまった。どうして? 僕はもう、用無しじゃないの?

「実はな、先日の発表会で、司教様がいたく感心されて。十五歳の少年がソプラノを出したのに、ひどく感じ入られて。いつ失われるか分からない美声、これは面白い、もう一度皆の前で歌ってみてくれないかと、おっしゃられたのだ」

 今度は、小さな教会の小さな舞台ではなく、司教が何人も集まる大聖堂で、僕一人で独唱してほしいというのだ。観客も大勢来るという。

 なんと……。

 僕は、呆気にとられた。

 嘘みたいだ。信じられない。

 司教様が、僕の歌を、そんなに。

 褒められたなんてものじゃない。僕の歌を聞きたいという。僕のことを認めてくれる。司教のような、偉い人が。

 僕の歌が、司教の心を動かしたのか。誰も振り返ってはくれない、惨めな劣等生の歌が、教区を管轄する司教のような偉い人に、届いたのか。

「やってくれるな、居谷」

 先生は、当然のことを確認するように、訊いた。僕は驚きのあまり口もきけず、ただコクンと頷いていた。


 今度の舞台では、教会幹部が何人も列席するというので、いくつかの楽譜を渡された。英語の歌が、五つ。覚えられるんだろうか。

 僕が、大聖堂で歌うことになったと、少し得意になって家族に言うと、養父は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「いい気になるなよ」

 養父は、低く言った。怒っている。この人は、僕が世間に認められるのが嫌なようだ。いつまでも僕を惨めな状態にして、虐めて笑っていたいのだろう。母は、目立つことをして、お父さんを逆撫でしないでよと、口を尖らせた。母は、養父の機嫌をなだめることだけに、腐心しているようだ。

 僕が英詩と格闘するのを、養父は邪魔をした。譜面を破いたり、耳元で騒音を鳴らしたりする。

 学校では、いじめっ子たちの妨害にあった。僕のまわりは、僕の足を引っ張る者ばかりだ。皆が、僕の失敗を望んでいるような気がする。

「アメージング グレイス なんという優しい響き

こんなにけがれた私をも救ってくださった

暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた」

 挫けそうになると、僕はアメージング・グレイスの一節を口ずさんだ。艱難辛苦の果てに、救いがあるのだと信じた。

 英詩を覚えるのには、苦労した。アメージング・グレイスは一日で覚えたのに、他の賛美歌はなかなか頭に入らない。まわりが邪魔するせいもあるけれど、何よりも僕自身、渡された歌にのめり込むことが出来なかったからだ。

 渡された歌は、神を讃えるものばかり。賛美歌だから、当たり前なんだけど、僕はこれらの、神を讃えるばかりの歌に、共感を覚えることが出来なかった。

 神の偉大さを讃える歌よりも、人間の弱さや絶望、それに対する救いを歌った歌のほうが、僕の心には響くようだ。不遜だろうか。クリスチャンではないから、こんなことを思うのだろうか。


 教会に顔を出すと、知らない女性がいた。

「あなたが、噂のソプラノ少年?」

 その若い女性は、高い声で僕に言った。僕はきょとんとなった。黙っている僕に、女は言った。

「口がきけないの、あんた」

 初対面で険悪に睨まれ、僕はますます戸惑った。

「あのう。あなたは……?」

 僕は狼狽えながら、ようやく彼女に訊ねた。

「ふん、男のくせに甲高い声。気持ち悪いわね」

「……」

 僕は、腹を立てるよりも、不審に思った。何なのだろう、この人。そこに、竜野先生がやって来た。

「彼女は、青木令子さん。我が聖歌隊のソプラノ歌手だ。青木さん、彼が、居谷晃司。ソプラノ音域を出せる中学生だ」

 竜野先生の紹介に、僕は目を見張った。目前の女の人を見る。美人といえる顔立ちだが、冷たい感じ。この人が、風邪で抜けたソプラノ歌手か。我が強いと聞いたが、なるほど、気が強い。

「今度、大聖堂で歌うんですって?」

 青木さんが、僕を睨んだ。

「良かったわね。あんた、いじめられっ子だそうじゃない。拾ってもらえて、嬉しいわねえ……」

 目を細めて、なぶるように言う。単に気が強いというより、悪意を感じた。でも僕は言い返しもせず、突っ立っていた。

「ここで見捨てられたら、あんた、行き場がないわね。可哀想なボクちゃん。せいぜい、頑張ることね。ここしか、すがるところが無いんだから。声変わりするまでの短い命だけど」

 青木さんは吐き捨てるように言って、鼻を鳴らして去っていった。僕は、傷つくと同時に呆然となった。

 なんだ、あれ?

「気にするな」

 竜野先生が、僕の肩に手を置いた。

「穴埋めのソプラノ少年が、自分を差し置いて大聖堂で歌うと聞いて、嫉妬しているのさ」

 家でも学校でも邪魔ばかりされるのに、教会にも僕に敵意を持つ人がいるのか……。青木さんの登場に、僕は気が重くなった。


 日曜日。練習しに教会を訪れると、閑散としたミサが始まっていた。この教会に信者が少ないのは本当のようだ。

 僕は、少ない信者のなかに、知った顔を見つけた。知った顔といっても、知り合いというわけではない。

 そう、司教の前で歌った時、前列に座っていた赤いカチューシャの少女だ。どこか虚ろな眼差しで、神父の説教を聞いている。彼女は、クリスチャンなんだろうか。

 祈る美少女……絵になると思った。でも僕は、彼女に声をかけなかった。彼女も話しかけてこなかった。

「どうもなあ」

 練習をしていて、竜野先生は首を捻った。

「アメージング・グレイスは素晴らしい出来だったのに、他の歌はもう一つだな」

 歌詞は覚えたし、音程も合ってきたけれど、気持ちが入っていないのが、聞く人には分かってしまうらしい。どうしたらいいのだろう。僕は俯いた。アメージング・グレイス以外の歌だと、褒めてもらえない。

「居谷よ」

 先生が、腕組みして言った。

「大聖堂での公演が成功したら、おまえを聖歌隊の正式メンバーにしてやってもいいぞ」

 えっ。僕は顔を上げた。

「ぼ、僕を、正式なメンバーに? で、でも、青木さんが……」

「なんだ? 入りたくないのか?」

 僕は首を振った。とんでもない。入れてもらえるのなら、喜んで入る。

「なあに、青木嬢のことは気にするな。声変わりすれば、彼女の敵意も消えるさ」

 そうかもしれない。

「声変わりしても、置いてもらえるんですか?」

「大聖堂公演が成功すればな」

 先生は、にっこり笑った。

 追い出されなくて済むのか。虐められない場所が、与えられるのか。

 大聖堂公演を成功させなければ。僕は、これまで気乗りしなかった歌に、気合いを入れるようになった。竜野先生にうまく乗せられた気がするけど、とにかく頑張った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ