アメージング・グレイス5
アメージング・グレイス5
「すごいな、居谷。おまえ、才能あるぞ」
最初はつっかえつっかえだった僕が、一日で英詩をマスターし、二日で音程を覚えたので、竜野先生は目を丸くした。
アメージング・グレイスの意味に心を打たれた僕は、必死になって英詩に取り組み、頭に叩き込んだ。僕は、心を込めて、歌った。叫ぶように。祈るように。僕の歌は、はじめのうちは上手いとは言えなかったけれど、めきめき上達していった。
一緒に歌う聖歌隊の人達は、僕の熱心さと上達ぶりを、褒めてくれた。
「たった三日しかなくて、どうなることかと思ったけれど、これなら何とかなりそうね」
「司教様の前に出しても、恥ずかしくないわ。誇れるくらいよ」
聖歌隊の人達が、代わる代わる僕の頭を撫でる。照れるけれど、たまらなく嬉しい。この三日、僕は学校が終わると、一目散に教会の練習所に駆け込んでいた。学校ではいじめっ子になぶられ、家では両親に疎ましがられるけれど、ここでは、誰も僕を虐めない。それどころか、褒めてくれる。
練習に時間を取られて、家での食事の支度や片づけが遅れ、養父に殴られるけれど、それでも僕は教会に通った。痛くて辛いばかりだった僕の生活に、安息の場所が出来たのだ。
どうしようもない僕を褒めて、歌が上手い、声がきれいだと言ってくれる。その言葉が聞きたくて、僕は教会に通う。
養父は笑う。いじめっ子はからかう。
「おまえ、教会なんか通っているのかよ。ついに神頼みか? 神様かわいそうなボクを助けてくださいってか。死ねば、神様に会えるかもな。ハハハハ……」
侮辱される。軽蔑される。傷ついた分、歌に力が入る。
アメージング・グレイス。これは、僕の歌。
いよいよ、明日は発表会。歌詞はそらんじている。音程も完璧だ。心配していた声変わりも大丈夫。あとは歌うだけだ。
興奮する僕に、養父は毒づき、母は怪訝に眉を寄せた。頑張れ、楽しみにしている、見に行くなどという言葉がかけられることは、この家では絶対に無い。浮かれやがってバカが、という目で見られるだけだ。
けれど、両親の冷遇も、気にならなかった。発表会のことで、心が一杯なのだ。ただ、なぜか頭が少し痛い。緊張のためだろうか。
僕は、頭痛薬を飲み、早めに床について、明日の本番に備えた。
ついに来た発表会。僕は学校を休んで、教会に行った。
聖歌隊の衣装を渡された。袖を通すと、少し大きかった。
「おまえは本当にチビで貧弱だなあ」
竜野先生に、呆れたように言われた。分かっているけれど、こうはっきり示されると、落ち込む。僕はしおれたが、司教が到着したと聞いて、落ち込みは吹っ飛んだ。
いよいよだ。本番が来たのだ。僕は緊張して、舞台に立った。
席にいるのは、司教とおぼしき白衣の男の人と、数える程度の人数だけだった。客は大体司教のまわりに固まっていたけれど、一人、皆から離れて、前列に座っている少女がいた。赤いカチューシャが目を引く。年は僕と変わらないだろう。ちょっと可愛い子だったけれど、ときめいている余裕は無かった。
司教は、少しあくびをした。頼み込まれて、弱小教会を訪れたのだろう。しきりに振り返り、早く引き上げたそうにしている。でも、僕ら聖歌隊はこの人のために、頑張って練習したのだ。
竜野先生の伴奏が始まった。僕の心から、緊張や司教への不満が消えていった。歌うという行為だけに、気持ちが集中していく。
アメージング・グレイス。絶望と再生、罪と救いの歌。
僕は息を吸い込んだ。澄んだソプラノの調べを紡ぐ。
全力で歌い終わり、僕はしばし、魂が抜けたようになっていた。呆然と立ちつくす。司教が、口を開いて見ていた。
終わると、急に緊張してきた。教会の偉い人の前で、ぶかぶかの服を着て突っ立っている。僕は、たまらなく恥ずかしくなって、逃げるように舞台袖に引っ込んだ。急いで、学生服に着替える。
落ち着くと、僕は寂しさに襲われた。
発表会は終わった。せっかく頑張って練習したのに、間抜けな本番になってしまったけれど、とにかく終わったのだ。
発表会が済んだら、僕は用無しだろうか。聖歌隊の人達は僕を褒めてくれたけれど、もう来なくていいと言われるんだろうか。
練習している間は、歌を飲み込むのに必死で、用済みになった後のことなんて考えられなかったけれど、発表会が終わってしまうと、急に不安が滲んだ。
このまま、歌わせてもらえないだろうか。急場の穴埋めではなく、正式なメンバーにしてもらえないだろうか。
「居谷」
竜野先生が、部屋に入ってきた。
「司教様が、おまえを呼んでおられる」
司教が僕を?
何だろう……僕は、首を傾げた。何か粗相をしただろうか。クリスチャンでもないくせに、賛美歌を歌ったことを咎められるのか。僕の思考は後ろ向きになっていて、叱られるとばかり思った。
僕は身構えながら、部屋を出た。
「中学生だったのか?」
僕と対面するや、司教は頓狂な声をあげた。聖歌隊の衣装で舞台にあがっていた僕を、彼は小学生だと思っていたらしい。それが詰め襟の制服で出てきたので、驚いたようだ。目を丸くして、珍しそうに僕を見る。
「何のご用ですか?」
僕は、俯いて言った。司教には、怒っている様子はない。お叱りでないのなら、どうして呼び出したのだろう。
「いや、素晴らしい歌声だったから、感動したと言いたくてね。しかし、まさか中学生、それも三年生だったとは……」
十五歳があんな高音を出せるなんてと、司教はしきりに感心していた。僕はどうしていいのやら分からなくなって、ますます俯いた。褒めてくれているみたいだけれど、嬉しいよりも戸惑いと困惑のほうが大きい。小学生だと思われたのもショックだ。今更ながら、惨めで、情けなくなる。どうして僕は、チビで童顔のままなんだろう。声もキンキンだし。成長期なのに。
司教は、僕の歌と僕の正体に、感嘆して帰っていった。発表会は、成功したと言えるんだろうか。
司教がいなくなった後、僕は竜野先生に頼み込んだ。
「あのう。僕を、聖歌隊に置いてもらえないでしょうか。お願いします」
竜野先生は、困ったように頭をかいた。
「明日、休んでいたソプラノ歌手が、戻ってくるんだよ」
僕は、もういらないということか。そんな。僕は立ちつくした。
「お願いです。僕を受け入れてくれる所は、他に無いんです。ここを出されたら、僕、どこにも居場所が無くなってしまう。置いてください。お願い」
「知っての通り、うちは予算が……」
「お金なんて、いりません。だから……」
すがる僕に、竜野先生は困惑した表情のなかにも、眉間を寄せた。
「置いてやりたいけど、我らの歌姫、ソプラノの青木嬢は、我が強くてな。ソプラノが二人もいたら、角を立てるに違いない。まして、自分よりも高い声を出す少年なんて、彼女のプライドが許さないだろう」
よく頑張ってくれた、感謝するよと、竜野先生はねぎらってくれた。僕は、無理に引き入れておきながら、用が無くなった途端に切り離そうとする竜野先生を、恨むよりも悲しく思った。
居場所が与えられたように感じたのは、僕の勘違いだったんだろうか。こんな、取り柄もなく、弱っちくて、虐められてばかりの僕なんかに、誰も、手を差し伸べてはくれないんだ。
アメージング・グレイスの主人公には、救いがあった。でも、僕には……。
暗闇を歩いていて、光明がさしてきたと思った。けれど光は消え、暗闇だけが残った。




