アメージング・グレイス4
アメージング・グレイス4
「あら、可愛い子ねえ。竜野さん、この子どうしたの?」
竜野先生に連れられ、聖歌隊の練習場所に出向くと、僕はメンバーに取り囲まれ、珍しそうな視線を受けた。僕はただ、おどおどと見返すばかりだった。
大丈夫だろうか。いじめられないだろうか。
「学校の教え子の居谷くんだ」
先生が僕を紹介すると、メンバーは目を丸くした。
「嘘っ。中学生なの?」
チビで童顔の僕は、小学生に見られていたようだ。からかわれるんじゃないか。嗤われるんじゃないか。僕は怯えた。
「居谷くんに、ソプラノパートを埋めてもらうことになった」
「え? 中学生の男の子が、ソプラノを出せるの?」
「まだ声変わりしてないんだよ。貴重だぞ。彼はガラスを破壊するソプラノの持ち主だ」
「へええ……女の子でも、そんな高い声を出せる子はいないわよ。男の子で、十五歳で、まだそんな声してるなんて、珍しいわね」
一同の目が、僕に注がれる。僕は俯いて縮こまった。
「居谷。ほら」
竜野先生が、つつく。声を出せ、歌ってみろと言う。視線を受けて、僕はとても声なんか出せなかった。
「使えないじゃない」
いつまでも黙っている僕に、メンバーが眉を寄せる。
「内気な子なんだ。知らない連中に囲まれて、照れてるんだよ」
先生は僕を庇った。メンバーは、冷たい目で、僕を見た。
「あのね坊や。どれだけいい素質があるか知らないけど、声を出さないんじゃ、どうしようもないわよ」
責めるように言われて、僕は立ちつくした。来たくて来たわけじゃないのに、どうして怒られなきゃいけないんだろう。
「居谷」
竜野先生が、僕の肩に手を置いた。助けてくれるんだろうか。僕は、先生にすがる目を向けた。
「私に、恥をかかせるなよ。ガラス代を弁償させるぞ」
先生は、怒気を含んだ低い声で耳打ちした。唯一の頼りの竜野先生に突き放され、僕はすくんだ。誰も助けてくれない。
「歌えよ、居谷」
先生が、脅すように言った。歌わなかったら、ガラス代の弁償を迫られるのは、必至だ。怒り狂う両親が、脳裏をよぎった。
歌わなければ。恥ずかしいなんて、言っていられない。
メンバーは、もう僕に失望したようで、僕を見ている人は誰もいなかった。
「きよしこの夜……」
僕は、俯いて小さく歌った。知っている賛美歌は、これしかない。
僕を振り返る人はいない。
恥を忍んで歌ってみたけれど、やはり僕なんかじゃ、誰も振り向いちゃくれないんだ。注目されるのも嫌だけど、無視されるのも悲しかった。
「もっと大きい声が出せるだろ。音楽室の窓を割ったように、声を張り上げてみろ」
竜野先生が言う。僕は、少し声を大きくした。僕を無視していたメンバーが、振り返った。
「わあ。本当に、ソプラノだ」
目を丸くして、僕を見つめる。ああ、恥ずかしい。消えてしまいたい。
「きれいな声ね……」
えええ? その言葉に、僕は面食らってしまった。きれいな声だって? 僕が、恥ずかしくてたまらないこの声が、きれいだって?
ほめられたのは、何ヶ月ぶりだろう。最後にほめられたのがいつだったのか、思い出せない。生まれてはじめて、褒めてもらえた気がする。嬉しくなるよりも、僕は戸惑った。
まごつきながら歌い終えると、メンバーは僕を取り囲み、拍手をした。
「ちょっと声が小さいけれど、こんな透明な歌声って、はじめてだわ」
「歌は、まだまだ練習の余地があるけれど、声は、すごく綺麗」
先程までの冷淡な表情から百八十度変わって、僕を囲んで賞賛する。
「どうだ、逸材だろう」
竜野先生が、少し体をそらした。
「男の子だっていうのが、また凄いわよねえ」
「声変わりするまでの、一瞬のソプラノか……そう思うと、ますます美しい声に聞こえるわ」
「もう一回、歌ってみてよ」
目を輝かせ、笑顔で僕に言う。僕の声を、褒めてくれる。嫌いで仕方がないこの声を、きれいだと言ってくれる。僕の声を、僕を、認めてくれる。
ああ。
養父に虐待され、母に見捨てられ、いじめっ子に虐められ、友人に突き放され、担任教師の助けも得られず、どうしようもなく惨めで、何の取り柄もない僕を、僕の声を、褒めてくれる。きれいだと。
「う……」
涙が滲む。視界が揺らぐ。いけない。泣いてしまう。どうしよう。
「どうしたの、居谷くん」
胸に、熱く切ない思いがこみあげる。メンバーが不審そうな顔をするけれど、こみあがる思いを、止められない。
もっと褒めて。僕を認めて。もっともっともっと。
「なんで泣くの? どうしたの?」
メンバーが眉を寄せる。いやだ、そんな怪訝そうな顔をしないで。僕を褒めて。
歌ったら、僕を褒めてくれるだろうか。讃えてくれるだろうか。僕は涙を拭った。
「きぃよし……ヒック、この……ヒック、うええ」
駄目だ、嗚咽で歌にならない。もどかしさと恥ずかしさで、僕はもうどうしようもなく、泣き崩れた。
「大丈夫?」
ようやく涙が枯れた僕を、メンバーが覗き込む。僕は小さく頷いた。
「小さい子ならともかく、男の子があんなに泣くのって、はじめて見たわ」
軽蔑するよりも、珍しいものを見るように僕を見る。僕は縮こまった。
「自分の声を気にしてるんじゃない? 恥ずかしいと思ってるんじゃないかな」
「皆の前で歌わせるのは、悪いことをしたかなあ」
「いい声だけど、泣くほど辛いんじゃあねえ……。これじゃあ、使えないわね。ソプラノは、他を探さないと」
「司教様の前で、泣きベソかかれちゃ、たまらないものね。さよなら、居谷くん。もういいわ」
諦めたように、肩を落とされる。
違う。さっきまではそうだったけど、今は。
「送っていこう、居谷」
竜野先生が、僕の手を引いた。
「もう来なくていいから」
そんな。
せっかく、はじめて、褒めてもらえたのに。
僕は足を踏ん張った。竜野先生に引かれる腕が伸びて、袖がめくれた。痣だらけの腕が、露わになる。
「居谷?」
動かない僕に、竜野先生が怪訝そうに振り返る。
「手間をかけさせるなよ。何なんだ」
舌打ちした竜野先生は、僕の腕に目を留めた。
「これは……」
少し驚いたように、痣を見る。先生は僕の腕を取って、しげしげと眺めた。
「ひどいな。どうしたんだ」
「何でもないです……」
「何でもなくないだろう。痣だらけじゃないか」
「転んだんです……」
「嘘をつけ。昨日今日の傷じゃないな。どうしたんだ?」
竜野先生が、怖い顔で覗き込む。僕は黙り込んだ。
「居谷」
「殴られるんです……」
先生に詰め寄られ、僕は呟いた。一度口を開くと、もう止まらなくなって、言葉があふれた。
「皆が殴るんです。養父が叩くんです。母がなじるんです。いじめっ子が蹴るんです。クラスメートが、無視するんです。邪魔だ、鬱陶しい、死ね、話しかけるな、消えろって言うんです」
「……」
僕の止まらない告白を、竜野先生やメンバーは、唖然と聞いていた。自分の窮状を告白するうち、己の惨めさを再確認し、また泣きそうになった。どうしようもない。本当に、どうしようもない。救いがない。最悪だ。
「だから、だから……来なくていい、いらないって言わないで。褒められたの、はじめてなんです。誰も、僕のことなんか、褒めてくれないんです。歌います。歌わせてください。お願い……」
僕は、助けを求めるように、すがった。メンバーは、顔を見合わせた。
「……ねえ、もしかして、厄介な子なんじゃない?」
「なんてこと言うの。可哀想じゃないのよ」
「とにかく、歌いたいって言ってくれてるんだから……」
僕の頭上で、相談がかわされる。追い出されるのだろうか。それとも、迎え入れてくれるんだろうか。僕は、判決を待つ被告のような気持ちだった。
「こんなどうしようもない子供を、放り出すわけにもいかないだろう」
竜野先生が、決をとった。
「歌わせてやろうじゃないか。それが居谷の救いになるし、我々の救いにもなる。なによりも、発表会まで、日がないんだ。司教様がお見えになるんだぞ」
司教という言葉に、メンバーの顔が引き締まった。僕はクリスチャンじゃないから分からないけれど、教会の偉い人のようだ。後で聞いたら、司教とは司祭の上に立ち、教区を監督する人だということだった。司祭とは神父様のことだ。神父様の上に立つような偉い人なんだ。
司教様の前で、僕みたいなクリスチャンでもない市井の中学生が歌っていいのだろうか。どうして、竜野先生は、そんな大切な発表会に、ただ高い声が出せるというだけの劣等生を、穴埋めに引き込んだんだろう。
「出来れば、その辺の子供なんかじゃなく、ちゃんとした歌い手を引き入れたかったさ。しかし、予算が無いんだ」
竜野先生は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。何でもこの辺りは信者が少なく、この教区の教会には、お金があまりないのだそうだ。だから、活動を盛り上げようと、この寂れかけた教会に、司教を招くことにしたのだという。それなのに、主役のソプラノ歌手が、風邪をひいてしまったのだ。
「頼むぞ、居谷。発表会まで、声変わりなんかするなよ」
それは僕にはどうしようもないけれど、僕は「はい」と返事をした。必要とされることが、くすぐったくて嬉しかった。声が低くなったら、追い出されてしまう。行き場が無くなる。発表会までは高い声のままでいられますようにと、祈った。不思議なものだ。あれほど嫌だった声なのに。
発表会まで、もうあと三日しかないという。大変だ。僕は、猛練習をすることになった。
渡された楽譜は、アメージング・グレイス。
英語の歌だった。僕は目を丸くした。英語なんて、劣等生の僕には、全然分からない。
竜野先生が、見本を示してくれた。何を歌っているのか、意味はさっぱり分からないけれど、綺麗なメロディだと思った。
さあ、この英語の歌を、たった三日で暗記して、しかも上手に歌わなければならない。僕は、歌詞をじっと見た。頭があまり良くないのに、覚えられるんだろうか。
僕は、竜野先生の後について、つかえながら歌った。何度も、やり直しをくらう。僕は歌いながら、この歌はどんな意味なのだろうと思った。
上手に歌えないまま、一日の練習が終わった。あと二日しかない。大丈夫なんだろうか。竜野先生や聖歌隊のメンバーは、僕の声は褒めてくれたけれど、歌には首を捻っていた。
帰途、僕は本屋に立ち寄った。宗教音楽の本を探す。僕はアメージング・グレイスの頁を開いた。そこには訳詞が載っていた。
「アメージング グレイス」なんという優しい響き
こんなにけがれた私をも救ってくださった
暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた
盲人に一筋の光が与えられたように
神の恵みは私の心の恐れを取り去り受けとめてくれた
信じた瞬間,この恵みの素晴らしさが私を取り囲んだ
多くの患難,誘惑をへて私はここに辿り着いた
神の愛が私をこんなに平安で清い世界へと導いてくれた
帰るべき家へと辿り着いた
神の約束神は全てのことを益とする
御言葉は私の志を固くたたせ
命が続く限り盾となって私を守り共に歩んでくださる
この地上での命が朽ち果てようとも
私は神の子であり喜びと平安の覆いが私を包む
この世界が滅び太陽が輝きを失おうとも
神は私を呼び給うとこしえまでも私は神のもの
私達は神の計画のうちに1万年もの間,輝き続けている太陽とともに
いつまでも,いつまでも神の恵みを歌い続けよう
……。
僕が、今日一日へとへとになって歌った賛美歌は、こんな意味だったのか。僕は驚きに目を見張りながら、何度も訳詞を読んだ。
「こんなにけがれた私をも救ってくださった
暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた
盲人に一筋の光が与えられたように
神の恵みは私の心の恐れを……」
声に出して読む僕を、周囲の人が怪訝そうに見た。僕は、まわりの視線など気づかないほど、訳詞に見入っていた。
この歌詞が、どんな人によって作られ、どんな状況でもって書かれたのか、僕は知らない。でも、人生の苦難に絶望した「私」の前に、神の救いがさし伸べられたというこの歌に、僕は深い共鳴を感じた。なぜなら、僕も暗闇を歩き、恐れ、多くの苦難を背負っているからだ。この歌の主人公と僕は、よく似ている。
アメージング・グレイスの主人公には、神様の救いが垂らされた。僕は、この歌を歌うことで、聖歌隊の人たちに必要とされる。行き場のない僕に、居場所を与えてくれる。
アメージング・グレイスの主人公は、けがれ、暗闇を歩いていたという。彼は心に恐れを抱き、多くの患難、誘惑に苦しんだという。
僕もだ。僕も苦しい。僕も、真っ暗闇の救いのない世界にいる。けれど、そんな僕の声をきれいだと言ってくれる、必要としてくれる、救いが垂らされた。
同じだ。アメージング・グレイスの主人公と僕は、同じだ。
アメージング・グレイス。
これは、僕の歌なんだ。




