アメージング・グレイス2
アメージング・グレイス2
僕は家族の誰よりも朝早くに起きる。朝食の準備は僕の仕事なのだ。朝食だけでなく、家事全般すべて、僕に任されている。任されているといっても、信頼されてるわけじゃない。こき使われてるだけだ。ヘマをすると、殴られる。
養父は、今朝も僕を叩いたけれど、僕は上機嫌で家を出た。家は憂鬱だけど、学校は、少しだけ、嫌でなくなった。立原がいるからだ。
僕が教室に入ると、それまで楽しそうに喋っていた声が、ピタリと止んだ。
学校で殴るのはいじめっ子だけだけど、他の連中は、僕を無視している。誰も、イジメられっ子の僕と関わりたくないのだ。僕は居心地の悪さを感じたが、立原を見かけて笑顔になった。
「おはよう、立原」
僕は立原に挨拶した。立原は目を剥いて僕を見ると、フイと横を向いた。どうしたんだろう? まあ、今朝は機嫌が悪かったのかもしれない。
授業が始まった。
「え~今日は三日か。じゃあ、出席番号三番、居谷」
僕だ。僕はゆっくり立ち上がった。
「この問題を解いてみて」
先生が板書する。僕は俯いた。
「どうした、居谷?」
「……分かりません」
僕は蚊の鳴くような声で言った。教室のあちこちから小さく、失笑が漏れた。
「なんだ、授業を聞いていれば分かるはずだぞ」
僕はますます、俯いた。家では、勉強なんか出来ない。教科書は、いじめっ子にマジックで塗りつぶされてしまった。ストレスのせいか、頭痛がする。僕はもう、授業についていけなくなっていた。
虐待されるようになってから身長も伸びなくなったし、ボンヤリすることが多くなったし、なんだか取り柄がなくなっていくような気がする。勉強が出来ない、体も非力、性格は陰気……。
僕は、長所が一つもないのではないか。惨めな気持ちになった。
「もういい、座れ」
先生に言われ、僕は情けなく席に着いた。
僕は何度か立原に声をかけたけど、彼は始終、そっけなかった。
家に帰ると、立原から電話が来た。受話器に飛びついた僕の耳に、立原の冷たい言葉が突き刺さった。
「学校で、馴れ馴れしくするのは、やめてくれよ。俺まで、チンピラに目をつけられちまう。ちょっと優しくしたくらいで、いい気になんなよ、鬱陶しい。二度と、声かけんなよ」
僕は、大量の食器を、機械的に洗っていた。立原の言葉が、頭の中でグルグル回っていた。
養父は、僕を鬱陶しいという。母も、同じ事を言う。立原も。
皆、僕が鬱陶しいという……。
鬱陶しい……鬱陶しい……鬱陶しい……。
グルグルと回る。
呆然と作業をしていたので、皿を割ってしまった。僕は飛び上がった。
てっきり殴られるかと思ったら、拳骨は飛んで来なかった。見ると、養父は酔いつぶれて眠っていた。僕は息をついた。
「……」
何だか、涙が出てきた。
いつまでこんな、ビクビクした生活してなきゃならないんだろう。
僕にもっと度胸があって、腕力もあったら、こんな虐められることもないんだろう。僕は、虐待者を憎むよりも、自分が情けなくなった。
弱っちい意気地なし。
僕は半ベソをかきながら、割れた食器を片づけた。
僕は、トボトボと歩いていた。
学校に行きたくない。家にも、帰りたくない。
すれ違う人々。ここは通学路なので、同じ年頃の学生ばかりだ。皆、数人で連れだって登校してる。一人なのは、僕だけのようだ。
僕だけ、友達もなく独りぼっちなのか……。
クスクス、と笑い声がした。きっと、たわいない会話で笑ったのだろうが、何だか僕を嘲笑しているように聞こえる。
踏切に通りかかる。
……。
この中に飛び込んだら、楽になれるかな……。
突然、自殺の誘惑が立ち上がってきた。
家でも学校でも虐められ、友達にも見捨てられ。取り柄もなく、誰からも相手にされない。
生きていたって、しょうがない。苦しいだけだ。
死ねば、もうこんな思いしなくていい。
電車に飛び込む。痛いかもしれない。でも、一瞬。生きてこれから受ける苦痛に比べたら……。
「居谷くん!」
腕を掴まれ、引き戻された。
「川井先生……」
それは、担任の女教師だった。川井先生は、真っ青になっていた。
「居谷くん! どうしたの! 危ないじゃないの!」
怒ったように言う。先生は、僕が飛び込もうとするのを見つけ、慌てて腕を引いたようだ。
先生は、僕が死のうとするのを、止めてくれたんだ。
僕を、死んじゃいけないって、助けてくれたんだ。
……。
「居谷くん? 大丈夫?」
「先生……」
僕は、人目も憚らず、ボロボロ泣いた。
「居谷くん。何があったか、話してみて」
僕は、生活指導室で、川井先生と二人、向き合っていた。
僕は、ちょっと俯いた。川井先生は若い女の教師で、僕は若い女の人に自分の情けない境遇を打ち明けるのを、躊躇した。
家でも学校でも虐められて、ただ泣いてるなんて。男のくせに、一つも反撃せず。先生は呆れるだろうか。
でも、もう、僕がすがれるのは、先生くらいしかいない。
どこにも、行き場がない。死ぬくらいしか、逃げ道がない。
僕には、川井先生の存在が、天井から垂れてきた一本の蜘蛛の糸のように感じられた。
「先生……」
僕は、羞恥を振り払い、勇気を絞って、打ち明けた。
家で、養父に殴られていること。母にも、邪険にされていること。学校でいじめに遭っていること。いじめっ子以外のクラスメートにも、無視されていること。立原に突き放されたこと。勉強についていけなくなっていること。
話しているうちに、自分の惨めな境遇が改めて思い返され、泣けてきた。女の人の前で、何度もメソメソするなんて。でも、涙を止められなかった。
「居谷くん……」
泣き出した僕に狼狽えたように、先生が声をかけた。僕の頭を撫でる。
「辛かったのね……」
いたわるように言われ、僕はまだ涙を零してしまった。
「でも、死のうなんて考えちゃ駄目よ。もう少し、頑張って。せめてあと四ヶ月、乗り切って」
「四ヶ月……?」
僕は涙に濡れた目を上げた。四ヶ月経ったら、どうなるというのだろう。
「四ヶ月経ったら、卒業するわ。そうしたら、いじめっ子とも縁が切れるわよ。進学して、新しいクラスで、やり直しましょう」
四ヶ月……百二十日……。僕には、四百年にも感じられる。そんなに長い間、この生き地獄を耐えられるだろうか。
僕は、一日一日が過ぎていくのを、祈りながら送った。一日が終わるたびに、あと何日残っている、とため息をつく。
川井先生に打ち明けた日から一週間にして、僕はへこたれそうになっていた。もたない。こんなんじゃ、もたない。
僕は、川井先生に再びすがりに、職員室に向かった。
「まったく、まいるわよ」
部屋に入る前に、川井先生の声が聞こえてきて、僕は立ち止まった。話し中なんだろうか?
「なんだって私の受け持ちに、居谷晃司みたいな問題児がいるのよ」
なに? 自分の名前が出てきて、僕は耳をそばだてた。問題児だって?
「あと四ヶ月で、何事もなく受け持ちが終わるというのに、自殺なんかされたんじゃ、たまったもんじゃないわよ。とにかく、私の受け持ちが終わるまでは、問題起こさないでほしいわよ。本当にもう、居谷の奴……」
心底、うんざりしたような口調の、川井先生の声。
金槌で打たれたように思った。
なんだって?
僕は立ちつくした。
川井先生。彼女が、四ヶ月頑張れと言ったのは、励ますためじゃなかったのか? ただ、自分に累が及ばないようにするためだったのか?
なんてこと。
先生は、僕の心配なんか、してくれてなかったんだ。ただ、自分の保身だけを考えていたんだ。立原と同じように。
誰も、誰も、誰も、僕のことなんか、気にかけてくれないんだ……。
僕の脳裏で、蜘蛛の糸が断ち切られた。僕は、奈落に落ちていくような錯覚に陥った。




