贖罪23
第11節
孝介は、意識を取り戻した。最初は朦朧としていたけれど、日が経つにつれ、彼の意識ははっきりしてきた。それにつれて、体力も回復してきたのか、彼の腕から点滴の管が取れ、代わりに食事があてがわれた。
孝介は、不思議そうに、差し出された病院食を見つめていた。
「どうしたの孝介?」
孝介は答えず、傍らの松永医師を見やった。
「松永?」
驚いたように、松永医師に声をかける。どうしたんだろう。松永も、孝介を見返した。松永はふっと微笑を浮かべた。どきっとするような優しい微笑だった。私はふと、マリア様を思い浮かべた。
「どうしました、津村さん。召し上がってください」
微笑と同じく、優しい声で言う。とても、孝介の死を前提に私に告白した男とは思えない。
やっぱり松永先生って、多面的な人だなあ……。でも、松永のどの面も嘘ではなく、全部本当の彼のような気がした。
きっと、医者の常識もなく私に告白した彼も本当なら、今こうして患者に優しい彼も本当なのだろう。
孝介は呆けたように松永を見ていたが、やがて俯いた。
しばらく、俯いたままだった。
「……。……。……」
孝介の肩が震えだした。発作だろうか。
「どうしたの? どうしたの、孝介」
私は心配になり、狼狽え、孝介を揺さぶった。孝介は顔をあげた。驚いた。泣いていた。
「松永が……松永が、俺を許してくれた。今度こそ、本当に、俺を許してくれたんだ……」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
私は不安になって、松永医師を見上げた。松永は、マリア様のような微笑みを浮かべたままだった。なら、大丈夫なんだろうか。私は戸惑いながら、泣きじゃくる孝介の背をさすった。
病院食なんか美味しくないだろうに、孝介はご機嫌で毎度それを平らげていた。ずっと点滴だったらしいから、こんなものでも孝介にはご馳走なのかもしれない。
孝介は、もう奇妙な行動をしなくなった。部屋の中を無意味に歩き回ったり、自分の体に針を突き刺すといった、狂的なことはなくなった。
けれど孝介にはまだ例の妄想、松永が中学時代に虐めた西崎少年であり、彼に復讐されたという思いこみが、残っていた。
「だからそれはあなたの妄想なのよ」
孝介が回復に向かっているので、私は怯えずに妄想を指摘できるようになった。
「松永先生と西崎くんは、別の人なのよ。だって西崎くんは……」
私は言いかけて、口ごもった。西崎少年は、孝介のいじめが原因で、亡くなってしまったのだ。
「西崎が、どうしたんだよ」
孝介が話を促す。私は迷ったが、言うことにした。人の命は重いのだから、孝介は西崎少年の死を知らなくてはならない。
「……西崎くんは、もう死んでいるの。十二年も前に。自殺したのよ」
孝介は目を丸くして私を見返した。
「本気で言ってるのか、美佳」
私は頷いた。
「嘘だ。それは違う。あいつは生きている。自殺未遂はしたが、生きている。松永が西崎なんだよ」
私は、孝介の頑固な妄想にうんざりした。あるいは、自分が少年を死に追いやったと認めたくないのかもしれない。
「間違いないわ。私、西崎くんの引っ越し先を探し当てて、彼の母親に聞いたもの」
「母親?」
孝介は露骨に眉を寄せた。
「そんなもの、証明になるもんか。母親だったら、いくらでも口裏が合わせられるだろう」
ああ、孝介はどこまで妄想に凝り固まっているのだろう。この妄想が無くならないと、孝介は回復したとはいえないのではないだろうか。私がそのことを松永に話すと、彼は問題ないと言った。
「頭痛や吐き気、熱などの症状も快方に向かっていますし、手術後は幻覚も見ていない。例の妄想も、彼がここを退院すれば、意味のないものになります。社会生活を送る分には、支障がないはずですよ」
言われてみれば、そうかもしれない。腑に落ちないが、担当医にそう言われれば、引き下がるしかなかった。
でも、やっぱり納得できないので、私は孝介をからかってやった。
「じゃあ、松永先生があなたに復讐して、酷い目に遭わされたんだったら、退院したら、今度は孝介が松永先生に仕返しするの?」
「やるもんか、そんなこと」
孝介の答えは意外だった。
「なんで俺があいつに仕返しなんか出来る? 俺にそんな資格あるもんか。松永が俺を許してくれたってだけで、もう十分。涙が出るよ」
驚いてしまった。孝介は、中学時代のいじめを、反省しているようだった。以前の孝介なら、「自殺するような弱いほうが悪い」と不貞不貞しく言い放ちそうなものなのに。
孝介の思いこみはまったくただの妄想なのだけれど、私は可哀想な西崎少年が浮かばれたような気がした。
孝介が自分の行いを反省しているのなら、彼の妄想を躍起になって崩すこともないか、という気になった。西崎くんのために、孝介の妄想はそのままにしておいたほうが良いように思った。もしかしたら松永も、私と同じように考え、孝介の妄想については処置しなかったのかもしれない。
孝介が西崎少年に対して行ったことは、法律ではどうか分からないが、人間としては到底許されないことだろう。でも孝介が、たとえ妄想のなかとはいえ西崎くんのために苦しみ、反省したことは、死なせてしまった少年に対する贖罪になるように思えた。これは、孝介の恋人である私の、身勝手な赦しなのかもしれない。孝介が反省しようが苦しもうが、死んだ少年は返ってこないし、少年の遺族の傷が癒えることはない。
でも、私は自分の中では納得することにした。孝介の罪は赦されたのだと、思うことにした。
孝介について驚くことは、他にもあった。
私と孝介は院内の売店に行こうとして、太った患者に廊下を塞がれた。その患者は口から涎を流しながら、牛のようにスローモーに歩いていた。
「邪魔なんだよ、このデブ気違い」と、孝介がその患者を突き飛ばすんじゃないかと思ったけれど、彼は患者が通り過ぎるまで大人しく待っていた。
「どうしたの孝介。辛抱強くなったじゃない」
「健康な奴が道を塞いでたらそりゃ頭に来るけれど、あれは病人だからな。弱い奴は、いたわってやらないとな」
私は孝介が別人になったように思った。以前の彼からは想像もつかないような、変身ぶりだ。でも、こういう変化なら、大歓迎だ。
孝介の病気は彼も私も辛かったけれど、こうなると今回の病気は神様が孝介に与えた愛の鞭だったのかしらなんて思えてくる。まあ、孝介が助かったから、こんな暢気なことが思えるのだけれど。
孝介の病気は、すっかり良くなった。例の妄想の他は、すっかり健康だ。孝介は退院することになった。
松永先生とも、お別れだ。寂しいな。あの人には、本当に世話になった。それに、若干未練もあるのかもしれない。私って、けっこう尻軽だったんだな。
もちろん、私と松永との淡い情については、孝介には言っていない。ちょっとだけ、孝介には罪悪感がある。
でもなんだかんだ言って結局、私は孝介を選んだのだから、許してもらえるよね……などと、自分に言い訳。
ともあれ、退院。素敵な青年医師とも、お別れ。
私と孝介は、松永に挨拶に行った。
「お世話になりました」
深々と、頭をさげる。孝介はたっぷり五分以上、松永に頭を下げていた。
そんなふうにいつまでも廊下を占領していたせいだろうか。松永医師は、通り過ぎようとした患者にぶつかってしまった。患者は手に飲み物を持っていて、松永はそれを思い切りぶっかけられてしまった。
「あーあ。ほら、孝介。あんたがいつまでも長引かせるから」
虚ろな目をした患者を責めるわけにもいかず、私は孝介を小突いた。孝介は恐縮した。
「す、すみません、先生。えーと」
孝介はハンカチなんて気の利いたものを持ち合わせていなかった。まったく……。私は松永に自分のハンカチを差し出した。
「ありがとう」
松永はハンカチを受け取り、拭い始めた。最後だというのに、この人は文字通り水も滴るいい男になってしまった。だけどこういう間抜けな別れも、メロメロラブロマンスに感動して泣きじゃくった松永を思い出させて、私には好ましかった。
私と孝介は改めて簡単な挨拶をし、松永と別れた。
卒業式のような、寂しさと清々しさ。
けれど病院を出た所で、私は忘れ物に気づいた。松永に、ハンカチを返してもらうのを忘れていた。別に放っておいてもいいのだが、私は取りに戻ることにした。もう一度松永に会いたかった。未練たらしいかな、と我ながら思う。
「孝介は待ってて」
私は孝介を玄関に待たせ、松永のところに戻った。孝介、ごめんね、と心の中で小さく謝る。
松永は、まだ先ほどの廊下にいた。彼はようやく、水気を拭い終えたようだった。もとは白かったハンカチが、塗料で染まったように肌色になっていた。
そして、塗料が落ちた松永の手首には、はっきりと傷跡が見えた……。




