贖罪21
第9節
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう……。
私は、一週間自己嫌悪に陥っていた。自分が、病気の恋人にさっさと見切りをつけて、新しい男に素早く鞍替えする、ひどく薄情な尻軽のように思えた。けれどその一方で、私は週末を楽しみにもしていた。
なんということだろう。
私の心は、早くも孝介から松永に傾きつつあるのか。
「いいじゃないの、相手はハンサムなお医者さんなんでしょう? 誰だって、精神病の男なんかより、お医者さんを選ぶわよ。それが普通よ」
リコが羨ましそうに言う。孝介の病気は物質的な脳の不調が原因であり、精神病とは少し違うのだが、私は訂正しなかった。
「まわりが何と言っても、応援してあげるから。要らないんだったら、私にちょうだいよ、その美形のお医者さん」
リコがひやかし、励ます。
そうよね。そうよね。誰だって、今の孝介より松永先生を選ぶわよね。私一人が、特別な悪女というわけではないわよね。私は自分に言い訳した。
そして週末がやって来た。
私は後ろめたさを引きずりながら、待ち合わせ場所に出向いた。
松永は、今度はスーツを着ていた。七変化な人だなと思った。
「先週は少しはしゃいだ感じだったから、今日はしっくりした感じでいきましょうか」
しっくり……。いよいよ彼は私に言い寄るのだろうか。私は少しときめいてしまった。
今回松永が連れていってくれたのは、前回のような若者風の店ではなく、大人の雰囲気の洒落たバーだった。高そうだな、と素朴に思った。奢ってもらって、いいんだろうか。
「遠慮しなくていいんですよ。僕はお坊ちゃんだから」
松永が気を解すように言う。
では遠慮なく……私は値段を気にせず、適当なものを注文した。フランスだかどこだかの、はじめて飲むワイン。美味しかった。孝介じゃあ、こんな所に連れていってもらうのは、無理だろうな……。
私はふと孝介のことが頭を過ぎり、それを振り払うように首を振った。
お酒やおつまみはもちろんのこと、マスターの気の利いた会話や、店の落ち着いた雰囲気を楽しむ。
バーを出ると、今度はロマンチックな遊歩道を歩いた。なんだか、映画のヒロインにでもなった気分。
画廊にやって来た。白と黒を基調にした、何ともシックな画廊だった。画の値段は、目玉が飛び出るほど。でも、見ているだけでも楽しかった。はじめての場所ばかりで舞い上がる私に比べ、松永は落ち着いたものだった。微笑を浮かべ、慣れた所作で私をエスコートする。
先週の子供っぽい彼とは、別人のよう。けれど今日の松永は、先週とは違った魅力があった。先週は、可愛かった。今は、格好良かった。
同じ人が、こんなに色々な面を持っているなんて。私は松永克巳という男が分からなくなると同時に、それがためにますます彼に惹きつけられた。
これが孝介だったら、いつも同じ顔。わがままで甘えん坊で単純で……。孝介はスマートだったり気障だったりすることはない。
また孝介のことを思い出してしまったので、私は頭を振った。
時間が、流れるように過ぎていく。
素敵な夜景を見下ろす食事のあとは、ミュージックホールにやって来た。ホールといっても小さなもので、薄暗く、美貌の女性歌手が艶めかしく歌声を響かせていた。観客は少なく、少し退廃的なムードがあった。知る人ぞ知るという舞台なのだろう。怪しい雰囲気が魅力だった。
舞台の怪しい魅力のためか、酔いのためか、あるいは隣の松永のためか、私の頬は上気し、胸が苦しかった。どうにかなりそうだ。
松永が、女性歌手から私のほうへ、目を転じた。彼も私と同じ心持ちなのか、若干頬が赤らみ、瞳が潤んでいた。
私たちはしばらく、見つめ合っていた。
女性歌手の歌声が、蠱惑的にホールに響く。薄暗い照明。客はまばら。
松永が、そっと私の手を握ってきた。私は一瞬身じろぎしたものの、抗わなかった。松永は私の手を両手で包んだ。そのまま、ゆっくり私の指を自分の唇に持っていく。
彼が唇で私の指に軽く触れると、私の背にぞく、と何とも言えぬ快い寒気がした。
「美佳さん……」
耳元で名を呼び、私の髪を嗅ぐ。松永の息がかかる。彼の唇が、耳元から頬へと流れていく。
あ、口づけされる……。
とろけそうになった脳裏に、孝介の顔が浮かんだ。
孝介!
「!」
私は、松永を押し戻していた。
「美佳さん?」
松永はいつのまにか、私を美佳と呼んでいた。私は松永から顔を背けた。
気まずい沈黙。
「……津村さんですか?」
松永に言われ、私は一瞬、震えた。
「津村さんをやっぱり、愛してるんですね?」
松永が訊く。私は頷いた。
「ごめんなさい……」
私は頭を垂れた。松永へのすまなさ、孝介へのすまなさ。色んな感情が、渦になる。松永が私の頭を撫でた。
「それでいいんですよ、小林さん」
私は顔をあげた。松永は、私を責めるふうでもなく、微笑んで見返していた。
「病気というものは、大変なものです。病人本人はもちろん、病人を支える家族や友人も」
「……」
「とくに、頭や心を病んだ人は、病を乗り越えるのは至難です。周囲は、疲弊しきってしまう。家族に見捨てられた患者を、僕は大勢見てきました」
「……」
私は呆然と、松永の話を聞いていた。
「津村さんには家族がいません。あなたしかいません。どうか、彼と一緒に戦ってあげてください。あなたなら出来ます」
「松永先生……」
私は松永を見返した。
松永はもしかして、挫けかけた私に、孝介への愛を確認させるため、私を誘惑したのだろうか? 見舞いに来なくなった私が、孝介を見捨てようとしているのに気づき、私を引き戻そうとしたのだろうか?
……。
ああ、この人は……。
私は、舞い上がっていた自分が、恥ずかしくなった。
孝介は戦っている。松永先生も戦っている。なのに私一人、逃げようとしていた。私こそ、孝介の側にいて支えてあげなきゃいけなかったのに。
「私、私戦います。皆頑張っているのに、私一人逃げるなんて、卑怯だもの。一番辛いのは、孝介だもの」
私は涙を拭った。
私は改めて松永を見た。
松永は励ますように微笑んでいた。
胸を打たれた。
医者の鏡みたいなひと……。
松永は先週と同じように、私を自宅まで送ってくれた。けれど今度は、前のようにまた会おうとは言わなかった。
松永先生は、ただ私を励ますためだけに、誘ったのかな。下心は、少しもなかったのかな。
私はふっと寂しくなり、「馬鹿ね」と自分を小突いた。




