贖罪20
第8節
休日。私は見舞いになど行かなかった。孝介のことを忘れたいと思った。私はリコを誘って街に出た。私はやたらとはしゃいだ。けれど何をしても、頭の隅には孝介のことがあった。
まだ彼を愛しているのか、それともあまりに気味が悪いのでこびり付いているのか、彼を見捨てたことに罪悪感があるのか。自分でも分からなかった。
「早く前の彼氏のことなんて忘れて、新しい男作りなよ」
リコが励ましてくれる。私が孝介を見捨てるのは、仕方ないと言ってくれる。
「知り合いの男の子、紹介してあげようか?」
私はリコの好意を断った。孝介のことは早く忘れたいが、さっさと新しい恋人に走れるほど、私は切り替えが早くなかった。
平日、私は仕事に打ち込んだ。課長に褒められた。でも別に嬉しくはなかった。何かをしていれば、孝介のことから気を紛らわせることができた。孝介のことから逃げていたのだ。仕事をしている時は楽だった。
私は、卑怯だろうか……。
また休日がやってきた。孝介が健康だった頃は、休日が待ち遠しかった。でも今は憂鬱なだけだ。リコに会うと男を紹介されるので、私は自室で陰気に過ごした。
することがないと、辛い。
こうしている今も、孝介はあの白い四角い病室で、彼だけの妄想のなかで生きているのだろうか。
私は、孝介が無意味な呟きや行動を繰り返す様を想像して、体を縮めた。
電話が鳴った。暗い想像に沈んでいた私は、ベルの音に飛び上がりそうになった。
「こんにちは、小林さん」
松永医師だった。私は面食らった。どうして、この医者から電話がかかってくるのだろう。そもそも、どうして彼は私の電話番号を知っているのか……ああ、そういえば家族がいない孝介の連絡先として、私の番号を病院に渡していたっけ。
医者からの電話。すると、孝介にまた何かあったのだろうか。
「いいえ。津村さんは、今のところ目立った症状は出ていません」
時々はまともな会話が出来ることもあるという。しかしいつ発作が起きるか分からないので、相変わらず面会謝絶なのだそうだ。妄想も相変わらずだという。
つまり、良くも悪くもなっていないということだ。
では、松永医師はなんだって電話をかけてきたのだろう。
「突然ですが、ちょっと、お会いできませんか」
松永の誘いは私を戸惑わせたが、一人で部屋に籠もっていてもくさくさするばかりだし、私は彼の誘いに応じることにした。
松永医師はトレーナーにジーンズという、とてもラフな格好をしていた。白衣姿の彼しか知らない私は、別人のような印象を受けた。白衣だと病人のようだけれど、そういう格好をしていれば、普通に見える。
でも白衣のほうが病的な分、男前に磨きがかかっていたかな。そんなことをぼんやり思った。
「お呼びだてして、すみません」
松永は笑顔で言った。この人も笑うんだ。失礼だけど、意外な感じがした。サナトリウム系が、健全系に見えた。
「もう、食事はすまされましたか?」
松永の問いに、私は首を振った。
「では、何か召し上がりませんか。美味しい店を知ってるんですよ」
松永が連れていってくれたのは、エキゾチックな雰囲気の店だった。若者に人気の店らしく、カップルや若い女性の姿が数多く見られた。松永先生のいきつけが、こういう店だなんて。意外だった。
はじめての店であり、メニューもよく分からなかったので、注文は松永に任せた。松永は私の味の嗜好を二、三訊ね、適当なものを注文した。
あちこちで、カップルが寄り添ったり談笑したりしている。私と松永も、傍目にはカップルに見えるかもしれない。
そう思うと、なんだか居心地が悪い。松永は、何の用があって、私を呼び出したのだろう。
「あのう……何かお話があるんでしょうか?」
私は訊ねた。松永はふっと笑った。
「普段、病人とばかり向き合っていると、たまには健康な人と話してみたいと思うものです」
「は?」
「息抜きです」
松永はいたずらっ子のように笑った。私は唖然となってしまった。
別に、用件なんか無かったのか。ただ、羽を伸ばしたかっただけなのか。身構えていた私は、力が抜けそうになった。
くだらない……そんな用事で、呼び出すなんて。私は松永に呆れながらも、席を立てないでいた。どうせ家に帰っても、陰気になるだけだ。この医者の息抜きにつき合ってやっても、まあいいだろう。
しかし、何だって私を呼び出したのか。彼にとって私は、患者の友人という、縁の浅い人間なのに。この人、友達いないのかしら……。
「友人は医者仲間ばかりで、男が多いですから。同業者だと、どうしても仕事の延長のような話になってしまう。それにどうせ向き合うなら、男よりも綺麗な女性のほうが良いに決まっています」
そんなことを冗談めかして言う。下心があるのかもしれない。でも、こんなハンサムなら、言い寄られても悪くない。私はなんだか開き直っていた。孝介のことで、ささくれていたのかもしれない。
料理が運ばれてきた。風変わりな異国の料理。でも、美味しかった。松永は、料理の説明をしたり、面白可笑しい失敗談などを話した。孝介のことは一言も触れなかった。私も、訊かなかった。
デザートが出てきた。私はアイスクリーム、松永はなんとイチゴパフェだった。
「こう見えてイチゴパフェには目がないんですよー」
ちょっと恥ずかしそうに言いながら、松永はパフェにかぶりついた。繊弱そうな青年とばかり思っていた松永の意外な面を見せられ、私は戸惑いながらも楽しかった。
これなら、家に一人でいるよりも、ずっと良い。今日は松永につき合おう。そう思った。
代金は、松永が全部払ってくれた。
「僕の気晴らしにお付き合いさせるのだから、今日はすべて奢りますよ」
気前の良いことを言う。私は甘えることにした。
店を出て、今度は映画館に入った。なんだかデートみたい。映画は、メロメロのラブロマンス。ちょっと退屈……と思って隣の松永を見てみると、彼は思春期の女の子みたいに、映画に感動して泣きまくっていた。映画よりも、松永のほうが面白かった。松永は私に見られているのも気づかず、映画に没頭していた。
映画のエンディングロールが流れると、松永はそそくさと席を立った。
映画が終わり、廊下に出て待っていると、松永が手荒いから出てきた。一生懸命、泣き顔を整えていたらしい。
「やっぱり、ラブロマンスは苦手ですね。女性向けだと思って辛抱していたんですが……」
涼しい顔で言う。ボロボロ泣いていたくせに。私は、彼の虚勢に吹き出しそうになった。
この人、可愛い。
私は松永に好感を持った。
ここのところ、気分の重い週末ばかりで、楽しいと思えたのは久しぶりのような気がした。
私も松永も、孝介のことには一切触れなかった。
そうこうしているうちに、あっと言う間に時間が経ってしまった。松永は私を自宅まで送ってくれた。
「今日は、僕の気まぐれにつき合ってくれて、ありがとうございました。楽しかった」
楽しかったのは、私のほうだわ。私のほうこそ、松永に礼を言いたかった。
「こちらこそ、いろいろ奢っていただいて、ありがとうございました。それじゃ……」
一礼して離れようとすると、松永はそっと手を握ってきた。私は驚いた。
「あの……来週も、会っていただけませんか?」
白い頬を若干赤らめて言う。私は目を丸くした。ああ、やはり下心があったのか。彼は私に孝介という恋人がいることを、知っているはずなのに。
患者の恋人に言い寄るなんて。非常識な人。私も、見くびられたものだ。
当然、断らなければ。
私は息を吸い込み、松永に言った。
「ええ。来週、お待ちしています」




