贖罪19
第7節
休日。私は、孝介の見舞いに行かなかった。孝介が私の訪問だけを楽しみにしているのは知っている。でも、彼に会えば、また妄想がひどくなっているのを見るようで、怖かったのだ。代わりに私は、友人を家に呼んだ。
「美佳の彼氏って、入院してるんだって?」
ひとしきり談話した後、友人が訊いてきた。孝介のことが話題にのぼり、私はせっかくの楽しい気分が、少し暗くなった。
「う、うん……」
「じゃあ、女友達なんかと遊んでないで、彼氏のお見舞いに行ってあげなきゃあ」
彼女はただひやかしただけのつもりなのだろうが、私には責められているように思えた。あんたは病気の恋人を見捨てようとしてるの、と言われたような気がした。
「病院、ちょっと遠い所にあるんだ。そう頻繁に行けるものでもないの」
私は言い訳した。
「ふうん。どこの病院?」
「松永病院」
「松永病院!」
友人は目を剥いた。友人が大声をあげたので、私は驚いた。
「あそこって、精神病院じゃない! 嫌だ、美佳の彼氏ってば、そんな所に入院してるのお!」
友人は、露骨に嫌悪を現した。気に障った。
「リコ。それ、差別よ」
「ええ~。だって、だって、精神病院って、普通の病院とは違うじゃない。頭のおかしい人を扱ってるんじゃない。怖い。気持ち悪い」
「リコ!」
私が怒鳴ると、リコははっとして俯いた。
「……ごめん」
小さく謝ると、リコは顔を上げた。
「でもね。正直な話、ちょっと、その彼氏とは別れたほうがいいんじゃない? 差別だろうと何だろうと、そういう病人とつき合っていくのって、大変だよ。綺麗事じゃ済まないよ」
心配そうに言う。きっと、善意から言ってくれているのだろう。友人として。
私は首を振った。リコの嫌悪や心配が、かえって私を叱責した。彼女と同じ思いは、私の奥底にもあったから。
気違い。怖い。気持ち悪い。
そう、私はいくら飾ってみたところで、壊れていく孝介を本当はそんなふうに思っていたのだ。リコのおかげで、私は自分の弱い心を直視できた。
孝介を見捨てちゃいけない。彼の側についていてあげなきゃいけない。
次の休日こそは、ちゃんとお見舞いに行こう。そう決心した。
私は、努めて明るい化粧と派手な服を着て、松永病院を訪れた。精神病院にはそぐわない格好で、浮いてしまっているが、構わない。自分で自分の気持ちを盛り立てないと、挫けてしまいそうなのだ。
ところが、孝介の病室には「面会謝絶」の札が下がっていた。
私は立ちつくした。面会謝絶って、どういうことなんだろう。
私は孝介の担当医、松永医師を探した。私を見ると、松永は戸惑ったようだった。
「先生。孝介、どうかしたんですか。面会謝絶って、どういうことなんですか?」
不安に戦きながら訊ねる。医師は、どう答えたら良いのか、困っているようだった。
「先生!」
「……津村さんは、今は少し、人と話せる状態ではないのです」
医者は観念したように言った。
何それ? 何それ?
私は医者の言葉を反芻した。
「話せる状態じゃないって……どういうことなんですか? 孝介、どうなっちゃったんですか?」
「症状が落ち着くのを待って、見舞いに来られたほうが……」
「先生! 孝介はどうなったんですか!」
私は、悲鳴のような声をあげた。
「孝介に、会わせてください。彼に会わせて。話をさせて」
取り乱す私を、医者はじっと見下ろしていた。
「……会わせることはできませんが、見ることならできます」
「見るだけでもいいです。孝介に会わせてください」
医者は私の肩を掴んだ。
「あなたは、津村さんの友達ですね? 大丈夫ですね? 彼がどんな状態であっても、津村さんは津村さんなんですよ。いいですか?」
覚悟はいいか、というように言われ、私は唾を飲んだ。そんなに、そんなにひどいのか。話もできないほど、会うこともできないほど。見るだけでも、覚悟が要るほど。
不安と恐怖がわきあがる。私はそれをぐっと押さえた。私は頷いた。
「大丈夫です。孝介に会わせてください」
通されたのは、孝介の病室の隣の小部屋だった。暗くてなにもない部屋だ。窓が一つあるだけ。
「あの窓はマジックミラーになっていて、向こうからこちらを見ることは出来ませんが、こちらから向こうを見ることはできます」
松永が説明した。
「医師が患者の様子を診るために、こうした仕掛けが必要なのです」
精神病院のような特殊な病院なら、そういったものも必要なのかもしれない。
「あの窓の向こうに、孝介がいるんですね」
私は胸を押さえて問うた。医者は頷いた。
私は二、三度深呼吸して、そろそろと窓に近づいた。
「……」
孝介がいた。私たちに気づいた気配はない。
病室は明るく、様子がはっきり分かった。
孝介は歩いていた。部屋の中を、ぐるぐるぐるぐる、歩いていた。
何をやっているんだろう? 私は眉間を寄せた。
孝介は歩いている。ただただ、部屋を回っている。その行動には、一片の意味もないように思えた。彼の様は私に、車輪を回すネズミを思い浮かべさせた。
孝介がいきなり倒れた。私は声をあげそうになった。彼は起きあがると、再び歩き始めた。
ぐるぐる。
ぐるぐる。
……。
どのくらい、呆然としていただろう。
孝介は時々倒れたりしながら、ひたすらに回り続けていた。
意味もなく。
無表情に。
目が回りそうになった。
突如、私と松永医師がいる小部屋が、明るくなった。
「しまった」
松永が舌打ちした。誤ってスイッチを入れてしまったらしい。さっきまで透き通っていた窓は、突然鏡になった。私は戸惑った。
「美佳!」
向こうの部屋から、孝介が叫んだのが聞こえた。彼の声に、私は驚愕した。
マジックミラーが逆転したのだ。
今度は、狂人の側から、私たちは丸見えなのだ……。
氷のようなものが、背を走った。
「美佳」
狂人が、私の名を呼んでいる!
ぞっとした。
私は松永を突き飛ばし、夢中で部屋を飛び出した。
狂人から離れたかった。狂人の視界に入るのが、恐ろしかった。
私は自室に閉じこもった。
怖い。
もう、孝介は完全におかしくなってしまった。
狂っている。あれは狂人だった。もう何をしてもどうしても、孝介は元に戻らないだろう。津村孝介は壊れてしまったのだ。
悲しみよりもなによりも、恐怖があった。
もういや。もう駄目。私のなかの僅かな愛情、虚飾、見栄、良心は砕けた。
あれはもう孝介じゃない。別の人なんだ。気持ちの悪い、別人。気違い。
私は薄情かもしれない。ひどい女なのかもしれない。孝介は可哀想なのかもしれない。こんな時こそ、支えになってあげるべきなのかもしれない。
けれどけれど、もう私はただただ恐ろしくなっていた。
津村孝介が、いや、彼の姿をした別人が、気味悪くて怖くて仕方なかった。
とても、私があの狂人を助けられるとは思えなかった。
もう近づきたくなかった。
関わりたくなかった。




