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贖罪15

第3節


 手術は成功したようだった。私は胸を撫で下ろした。良かった。

 と思ったのも束の間、孝介はとんでもないことを言い出した。

「松永だけど」

 どうも最近、松永医師の話ばかりのような気がする。孝介は言った。

「あいつ、手首に傷跡があった」

 ちょっと驚いた。

「嫌だ……なにそれ」

「なんか、自殺未遂の痕みたいな傷だった」

「……」

 本当だとしたら、不安になるような話だ。恋人の担当医が、自殺未遂経験者だなんて。

 私は、それとなく松永医師に近づき、彼の手首を窺った。白衣の長袖が邪魔で、なかなか見えない。

 あまりじろじろ見ていたものだから、気づかれてしまった。

「どうかしましたか、ええと……」

「小林です」

「ああ、小林さん。たしか、津村さんのお友達でしたね」

 私は頷いた。青年医師の表情が、暗くなった。

「先生?」

「いえ、なんでもありません」

 松永医師は私を見据えた。

「小林さん。あなた、僕の手首を窺っていたんじゃないですか」

 ずばりと言われ、私は固まった。なんで分かったのだろう。そんなに露骨に見ていたのだろうか。

「きっと、津村さんが僕のことをあなたに少し話したんじゃないかと思いますが……」

 私は驚いた。この医者は、孝介が自分をどう思っているか、承知しているのか?

「津村さんは、僕のことを自殺未遂をした不気味な医者だと思っているようですね。違いますか?」

 私は驚きながら、頷いた。よくお見通しだ。担当医だからだろうか。

 医者は白衣の袖をまくってみせた。両腕とも。

 白い腕は綺麗なもので、傷跡など無かった。私は目を丸くした。医者は袖を元に戻した。

 どうなっているんだろう?

 恋人の担当医の自殺未遂疑いが晴れて安心すると同時に、私は混乱した。松永医師に傷があると言った孝介の様子は、決してからかったり冗談を言うような調子ではなく、本気だった。

「小林さん。津村さんのように、頭の病気の人には、周囲の理解が必要です」

「……?」

「彼が幻覚を見たり、変わったことを言い出したとしても、それは病気のせいなのです。暖かい目で、見守ってあげてください」

「……」

 私は立ちつくした。つまり松永医師の手首の傷云々は、孝介の幻覚だったというのか?

 頭の病気……。

 私は急に不安になった。

「先生。孝介は、大丈夫なんでしょうか」

 手術は成功したと聞いたけれど。幻覚を見るなんて。

 松永医師は微笑んだ。

「大丈夫ですよ。ここは、そういった病気の専門病院なんですから」

 そう言って胸を叩く。華奢な青年医師が、頼もしく見えた。


 孝介の表情が芳しくない。

 頭痛が消えないという。

 医者は……もちろん、松永克巳医師だが……予後を見るため、もうしばらく入院しているように言った。早くこの医者と縁を切りたかった孝介は、しきりにため息をついていた。

 孝介はいろいろな薬を投与されているようだったが、頭痛は相変わらずだった。

「あの医者、ヤブじゃねえのかよおお……」

 孝介は、恨めしそうに松永医師を呪っていた。

 どうだろう。紹介を受けたくらいだから、そんなにひどいヤブではないと思うが。

 しかし、孝介の容態が良くならないのは心配ではある。

 松永医師は、孝介に張り付いている。孝介は気味悪がっているが、彼の容態を思うと、松永先生は医者として患者を観察しているのだと思う。この人は一見冷たそうな印象だけれど、本当は患者思いの医師のようだ。

 孝介は、いい医者に当たったな、と思う。

「もう帰るの?」

 私が立ち上がると、孝介はすがるように言った。

「もう少し、居てよ」

 甘えるように言う。病気で、弱気になっているのだろうか。

「美佳がいなくなると、松永が来るから……」

 気味悪そうに言う。私は目を丸くした。

「どうしたの孝介。松永先生は、そんなにあなたにべったりなの?」

「夕べさあ……ふっと目を覚ますと、あいつがいたんだよ。薄笑い浮かべて、俺を見下ろしてるんだ。夜中だぜ。真っ暗な病室に、松永の白い顔……。キモチ悪いったら……」

「……」

 それで松永医師が何をするのかというと、何もしないのだという。ただ満足そうに、孝介を見下ろしているのだと。夜中に。

 まさか……。手首の傷の件があるので、孝介の話は耳半分に聞いてしまう。それも、孝介の幻覚ではないのだろうか。しかし、これも幻覚だと考えると、孝介の症状はどんどん悪くなっているように思えてしまう。

 もし孝介の話が本当なら、松永医師の執着は、尋常ではない。医師と患者という関係を越えているような気がする。そして、男色というわけでもなさそうだ。

 何なのだろう。

 孝介ではないが、たしかに気味悪い。幻覚ではありませんようにという願いもあって、じゃあ松永医師はなんだって夜中にそんな奇矯な真似をしていたのかと、首を捻ってしまう。

 私は思い切って、松永医師に訊ねてみた。すると医者は豆鉄砲を食らったような顔をした。

「津村さんは、今度はそんなことを言っていましたか……」

 松永医師は呟き、考え込んだ。

「先生?」

「僕は、夜中に津村さんを覗き込んだりはしていないんだが……きっと、寝ぼけたんじゃないですか」

 やはり、そうなのだろうか。孝介の見間違いだろうか。

「先生。また幻覚ってことは、ないですよね?」

「……」

 医者は、また考え込んだ。意を決したように、顔をあげる。

「小林さん」

 松永は私に言った。

「津村さんの病気は、かなり進行していました。脳膿瘍という病気は、診断が遅れると、幻覚や精神障害を引き起こすことがあります」

 私は言葉を失った。倒れそうになる。

 精神障害……。

 松永医師が私の両肩を掴んだ。

「しっかりしてください。一番辛いのは、病人である津村さん本人なんです」

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