前進
あれからずっと考えていた割には、今日はよく眠れたと思う。昨日は部屋に戻ってから、夕ご飯もそのまま部屋に用意してもらった。どの使用人たちも一様に心配そうな顔をしていたが、なんとなく一人になりたかったのだ。でもそれも、もうおしまい。変わると決めたからには、早い方がいいに決まっている。
まだ日も登りきる前の薄暗い部屋にランプを灯した。本来ならば使用人がやってくれるのだが、まだ起こすには少し早い。それにマッチの使い方も分かる私には、何の問題もなかった。薄い羽織を掛け、そのまま机に向かう。ランプを机に置くと、ゆらゆらとした光がその周りを照らしていた。
「とりあえず」
机から紙とペンを取り出す。インクを付けて書くペンは、ボールペンなどに比べるととても書きにくい。しかも消すものがないから、失敗すれば書き直しという悲惨さだ。
「よし」
気合をいれてから、ペンを進めていく。まずはお世話になった学園の先生たちに書く手紙からだ。当たり障りのない挨拶から、お世話になった感謝、そして何か面白いことがあれば教えてほしいと書き、最後にまたお会いしましょうとしめる。そう遠くないうちに、私はここを出ていかなければならない。父は元々忙しく、ほぼ家に帰らない人なので問題はないが、母は領地にあるカントリーハウスへ行くことになるだろう。領地はここから馬車で半日ほどかかる、海辺の町だ。船が着く港があり、そこそこ栄えてはいる。栄えている割に、領地面積はそれほど広くはない。今回、グレンとミアが結婚することになれば、グレンがこの侯爵家を継ぐことになり、二人はこのままこの屋敷に住むことになるだろう。そうなれば私は母について領地へ戻るか、王都に残りたければ、ここで仕事を探さなければならない。王城で勤める父に口を聞いてもらうのが一番なのだけど、父は女の幸せは、結婚して家に入り静かに暮らすことだと思っているような人だ。結婚適齢期真っただ中の私が仕事をしたいなどと言えば、いい顔をしないどころか最悪領地に閉じ込められて、お見合いコースだろう。会ったことも、会話したこともない人と結婚するくらいならば、独身でいいのだけど。そのためにも父に何か言われる前にちゃんとした仕事を見つけてしまわないと。手紙だけでは心もとないから、今日は街に出て今の情勢や流行りを確認しないと。
手紙を書く手を止め、椅子に座ったまま伸びをする。考えてみたら、今まで街で買い物などしたことはあっただろうか。いつも王立図書館へ行く道を馬車から眺めたことはあっても、降りたことはない。幼い頃は母に連れられて行ったことはあったものの、もうほとんど思い出せないような昔だ。ましてや一人で買い物すらしたこともない。
「やだ私、完全に箱入り娘だわ」
貴族の令嬢はそんなものなのだろうか。いや、従者を連れて買い物くらいは行くだろう。お金の使い方すら分からないと、仕事どころの騒ぎではない。一人暮らしすら、絶対に無理だ。そういえば、この世界には財布はない。代わりに巾着のようなものに、みんな硬貨を入れている。
もう少しかわいいものがあれば売れると思うんだけどな。でも、基本的な令嬢がするような裁縫は得意ではないので、今度誰かに頼んで作ってもらう方が良さそうだ。
引き出しからお金の入った袋を取り出す。お小遣いのようにもらったものを、今まで使ったことがないためそのまま無造作にしまい込んであった。中には、銅貨・銅板・銀貨・銀板・金貨が何枚も入っている。まず、それぞれの価値がわからなければ使いようがないな。
―コンコンコン
やや手早く短いノックの後、ルカが入室してくる。外を見れば、薄ぼんやりとしていた空を追い上げるように、朝焼けが目に染みる。
「ソフィアお嬢様、もう起きていらしたのですか?」
「ええ。ルカ、昨日は当たってしまごめんね。朝早く目が覚めてしまったから、ちょうど手紙を書いていたのよ」
「手紙ですか!? まさか、遺書なんてことは」
「ルカ、やだ、やめてよね、おかしい」
「お嬢様、冗談ではないのですよ」
「分かっているわ。お世話になった学園の先生たちに、最近はどうですかとご挨拶のお手紙を書いていたのよ。卒業してから、なんだかんだと書く時間がなかったから。そんなに怒らないで、ルカ」
真顔で心配するルカを横目に、ケタケタと笑いがこみ上げてくる。まさか、そこまで思い詰めていると思われていたとは思わなかった。
「お嬢様、ルカがどれほど心配したと思っているんですか」
「そうね、笑って悪かったわ。でも言ったでしょ、グレンの事は何とも思ってないって」
「でも、ソフィアお嬢様、昨日……」
「んー、そうね……。ミアに親友を取られたという意味では少し凹んだわね。でも、本当にそれだけよ。むしろ、今はやることがいっぱいになってしまったわ。二人が結婚をしたら、みんな領地へ戻るでしょ。それまでに私もどうするか考えないとね。そのために、まずいろんなことを学んだり、知ろうと思うの。ルカも協力してくれる?」
「ソフィアお嬢様、ルカは何でもお嬢様の力になりますから言ってくださいね」
目に涙をいっぱいにため、何度も頷く。
「ありがとう、ルカ。あとで、街へ買い物に行きたいのだけど付き合ってくれるかしら?」
「もちろんです」
頼もしい仲間が増えるのはありがたい。何せ、この世界でのほぼ初めてのお買い物だものね。
「お買い物には、お金はどれくらい持っていけばいいかしら?」
「買うものにもよりますけど、ドレスなどでしたらそのまま支払いを侯爵家へ付けてもらう形になるので、それほど必要にはならないと思いますが」
「んー。それだと意味がないのよね。自分で買い物とかしたことないから、お金の使い方も価値もあまりよく分からなくて」
お金の価値が分からないなんて、外で言ったらどれだけの恥なのだろうと思う。でも、今分からなければ困ることは、恥であっても聞かなければ進めないのだから、仕方ない。それに今までの私を知っているルカなら、あまり疑問にも思わないだろう。
「そういうことですね。金貨は普段使いには、使いづらいものですから、それ以下の硬貨を持っていくのがよろしいと思いますよ」
「一応確認したいんだけど、銅貨10枚で銅板1枚、銅板10枚で銀貨1枚、銀貨10枚で銀板1枚、銀板10枚で金貨1枚の換算でよかったわよね?」
使ったことはないから、価値がいまいち分からないものの、計算は学園で習ったことはあるからそれは分かる。
「はい、ソフィアお嬢様、それで合っていますよ。金板というのはないので、金貨100枚で白金貨1枚ですね。そこまで行くと、一生私たちが見ることはない物だと思いますけど」
大体の予想としては、銅貨が10円、銅板が100円、銀貨が千円、銀板が一万円、金貨が十万円ってとこだと思うのだけど、これは実際物を見てみないことには分からなさそうだ。でも、金貨100枚で白金貨って、一千万……。確かに桁が違いすぎて、見ることはないわね。
「ねー、そういえば、ルカのここでのお給金って、金貨2枚くらい?」
「ソフィアお嬢様、いくら侯爵家のお給料は他よりいいとは言っても、そんなにはいただけませんよ。住み込みで、ご飯などもいただいているんですよ」
住み込みだからこそ、プライベートな時間もあんまりないからと思ったんだけど、ここではそうではないらしい。
「街では金貨は使いづらいので、基本、お給金は銀貨や銀板でいただいています。侍女は初めてのお給金で、だいたい銀板10枚いただければ多い方ですよ。だから、みんないいところの侍女に憧れるんです。もっとも、給料は良くても旦那様や奥様がすごくキツイ方で、長続きしないお屋敷もたくさんあるんですけどね」
銀板10枚で多い方。そうなると、私みたいな何にもない人間が働いても、王都で一人暮らしするのは難しいかもしれないわね。もっと、剣とかが使えれば冒険者とかになって世界を回ることも出来たのだろうけど、体育会系ですらない私には到底無理な話だ。
考え込む私を気にすることなく、ルカがテキパキと私が出かける用意を始めていた。昨日の豪華なドレスとは違い、街の人間も着ているようなワンピースを取り出す。濃紺で、丈もひざ下まであり私にはちょうどいい。金貨は使いづらいと言っていたので、とりあえず銅貨から銀板まであれば大丈夫だろう。適当な枚数を袋に詰め、あとは引き出しへ戻す。
「ワンピースなら着替えは一人で出来るから、ルカも出かける用意をしてきてちょうだい」
「はい、お嬢様。では、馬車の手配もしてきますので、そのままお待ちいただけますか?」
「ええ、頼むわ。いつもありがとう」
そう言ってほほ笑むと、ルカはとても幸せそうな笑顔を返してくれた。朝日の昇りきった空は、雲のなく青々としていた。