現実
「おはようございます、ソフィアお嬢様、今日も良い天気ですよ」
侍女のルカがそう言いながら、カーテンを手早く開けた。初夏に差し掛かり、日差しがだんだんと強くなってきた。窓からは大きな庭園が見渡せ、木々が青々と茂っている。しかし、ここに蝉の声はない。この世界には魔物までおり、前の世界の生態とはだいぶ違うようだ。それでも、蝶やカエルといったものは、この庭で見かけたことがある。
「おはよう、ルカ」
「いよいよ、今日ですねお嬢様」
「いよいよ? 今日? 今日、何か予定なんて入っていたかしら」
「えー。覚えていらっしゃらないのですか? 今日はグレン様が、お見えになる日ですよ」
「ああそういえば、昨日家令が言っていたわね。お父様にも話があるから、皆で昼食をと手紙に書かれていたと。でも、それで、何がいよいよなの?」
「それ、本気でおっしゃっているんですか」
「本気も何も、ただ皆で話しながらご飯をということでしょ」
「それは確かにそうなのですが、そういうことじゃないじゃないですか」
「え、違うの?」
首をかしげると、ルカがありえないという表情で驚いている。グレンがお見舞いに来てから、ちょうど一週間経った。馬車の転倒で、全身打撲と診断を受けた私は、あの後熱が出て昨日まで寝込んでいたのだ。その間に、グレンから父への正式な面会の予約がなされたと聞いたのは昨日の夕方だった。
「この前、お嬢様のお見舞いにグレン様がお越し下さった時に、言っていたではないですか。お嬢様に、大事な話があると。きっと、グレン様はお嬢様に婚約を申し込むつもりに決まっています」
私より1つ年下のルカは、目を輝かせ、手を前で組みながら私を見つめている。どうやら、その瞳には今目の前にいる私を通り越し、婚約式でもやっている姿が思い浮かんでいるのだろう。ルカは侯爵家の侍女長の娘であり、4年ほど前に見習い期間を経て私の専属侍女となった。年が近いせいもあり、部屋ではこうした砕けた会話も出来るようになった。妄想癖がやや強いものの、とても純粋で、こんな子が妹だったらと、何度か思ったことがある。
「うふふ、やだ、ルカったら」
「何を笑ってらっしゃるのですか」
「だって、それは絶対にないわ。私とグレンは、よく見積もっても友達でしょ。一緒にいて苦痛ではないのは確かだけど、今まで恋愛になんて発展しそうになったことは一度もなかったわよ。意見がぶつかり合って、言い争いになったことなら何度かあるけど」
「それは、お嬢様からしたらそうかもしれませんが、グレン様からしたら違うかもしれないではないですか。いつも側にいて、意見をし合い、いつしかかけがえのないものになっていた。みたいな?」
「そんなものかしら」
「そんなものです」
「んー、何か違う気がするんだけど」
「じゃ、お嬢様は侯爵様まで呼んでする大事なお話とはなんだと思うんです?」
確かに、仕事人間で普段家にあまり居付かない父に許可を取ってまでする話とはきっと重要なことだということは分かる。
「それに、仮にですよ。お嬢様はグレン様が婚約をミア様に申し込むなんて考えられます? ミア様とグレン様とではあまりに正反対すぎます。すり寄って来るようなご令嬢は、グレン様の好みではないのではないですか?」
「まあ、それもそうだけど」
確かに、学園ではグレンの地位や身分だけを目当てに集まる令嬢たちに冷たい言葉や視線を返していたなとは思う。
でも、ミアにはどうだろうか。元々、家族ぐるみの付き合いもあるため、あまり比較にもならない気はするが。
私だって、グレンが嫌いだというわけではない。一緒にいて退屈ではないし、ある意味よく似ていると思う。全然知らない、気の合わない人と結婚させられるよりはたぶんマシ。いや、マシ以上にきっと楽だろう。今の生活と何が変わるわけでもなく、似たもの夫婦と言われるような穏やかな日が続くのだろうと、なんとなくは想像がつく。
「とにかく今日の主役はお嬢様なのですから、目一杯、着飾りましょうね」
「いつも通りでいいと思うのだけど。それに、まだ主役と決まったわけではないのだから」
「お嬢様はいつも地味な恰好ばかりですので、たまにはいいんです。奥様からも申し付かっておりますから」
「お母様からも?」
思わずため息が出る。とても厳格で、私からすれば頑固な塊でしかない父と、それに静かに従う母は、こういったことではしゃぐタイプではないはずなのだけど。
「とにかく、着替えますよ」
「はいはい」
ルカはそれほど大きくない衣装棚を開け、ドレスを物色し始めた。ドレスというものを着るのは、本当に大変な作業だ。下に着たり履いたりするパーツの多さもさることながら、それをコルセットでこれでもかと締め上げる。胸と体のラインを強調するためらしいのだが、太ってはいない私でもこれはかなり苦痛だ。
「これにしましょう」
ルカが取り出したのは、夜の空を思い浮かべるような深い青のドレスだった。マーメイドラインにそのドレスは見た目こそ派手ではないものの、胸元が開いていてこの世界の人間ではなかった私には、いろいろ心もとなく感じてしまう。
「ふつ―のでいいんだけど。もっと、ワンピースみたいな」
「ダメです」
即座に断ると、何かに火のついたようなルカはテキパキとドレスに合う、宝石を探し出す。
「これで胸が綺麗に見えますからね」
やや大粒のグリーントルマリンのような青みがかった緑のネックレスだ。一体、これだけでいくらするのだろう。
「昼間からこんなの付けたら、肩が凝ってしまいそうね」
「お嬢様はまたそんなこと言って。さあ、着替えますよ」
着替えと化粧、そして髪のセットに小一時間費やした頃には、体力の戻っていない私はすでに疲れ果てていた。鏡に映る姿は確かに品があり、ハーフアップにした髪は軽く巻かれ、波打つ海のようだ。これが今の自分だと思うと、少し変な気分。いつまで見ても、見慣れない。
「これで、微笑んで下されば、落ちない男などいませんからね」
「大袈裟よ、ルカは」
「そんなことありません。王都一の美人なのですから、しっかり背筋を伸ばして下さい、お嬢様」
ルカに太鼓判を押され、重い足取りのまま客間へ向かう。
微笑みさえすれば、それが一番難しいのだけどね。
客間には、すでにグレンもミアも両親も集まっていた。どうやら私が最後だったらしい。全員の視線が一斉に突き刺さる。その表情は様々だ。ミアは目を細め、露骨に嫌な顔をし、母は合格だったのかにこやかだ。父は相変わらず、何を考えているのか読み取れず、グレンはやや驚いたような表情をしていた。
「遅くなりました」
予定の時間より早かったはずだが、一応詫びる。
「いや、僕が早かったんだ。悪かったね。それより、ソフィアはまた一段と綺麗になったね」
「えー、グレン様、ミアは?」
グレンの横の席をすでに陣取っているミアは、口を尖らせた。
「ミアは、いつでもかわいいよ」
その言葉を聞いたミアは満足げにほほ笑むと、横目で私を見た。しかし、私はその視線に気づかないふりをして、そのまま母の隣に座る。和やかなはずのこの雰囲気の中で、異様に居心地が悪いのはたぶん私だけなのだろう。
私が席に着くと、見計らったかのようにお茶やそれに合わせたケーキやなどのお茶菓子が運ばれてきた。談笑する彼らを横目に、一人黙々と食べ始める。父は今まで見たことがないくらい、上機嫌のように思える。次期宰相候補であり、ましてや身分もうちより高い公爵様の次男からの大切な話ともなれば、ルカではないが期待しているのだろう。
「侯爵様、今日僕が面会を申し込んだ理由は、婚約の願いを聞いていただきたいと思いまして」
「まぁ」
「そうか、そうか。それは、うれしい限りだ」
「では、これを」
グレンから婚約の申し込みの手紙を受け取った父は、満面の笑みだ。そして、その顔をちらりと私に向ける。
ルカの言っていたことが、本当に当たってしまったようだ。婚約。いくら言われても実感はない。でも、これが普通のことなのだろうか。
しかし手紙を読む父の顔が、一瞬陰った。そう見逃してしまうくらいのほんの一瞬、眉間にシワが刻まれる。
「?」
父はやや考えるように停止した後、手紙を母に渡した。手紙を渡された母は、父の行動が分からないままも、受け取って読み出す。
「許可いただけますか?」
「……、ああ、もちろんだ。ミアとの婚約は許可しよう。すぐに公爵様へのお返事を書くから、待っていてくれるかね」
「はい、ありがとうございます」
「いやいや、お礼を言いたいのはこちらだよ。うちには息子がいないから、君がこの侯爵家を継いでくれるなら、とてもうれしい限りだよ」
「グレン様、本当ですの? ミアを妻にして下さいますの?」
涙を目にいっぱい貯めて、ウルウルとさせながら、ミアは隣に座るグレンの手に自分の手を重ねる。
「正式なプロポーズはまた別の場所でさせてもらうけれど、これからは僕だけを見つめて欲しい。この婚約を受けてくれるかい?」
「まぁ、グレン様。もちろんですわ」
「おめでとう、ミア。早速、ドレスの準備をしなければね」
「はい、お母様」
幸せそうな家族風景だが、イマイチ会話が私の中には入っていかない。別に元々、私が婚約を申し込まれる予定だったわけではない。ただ、周りがそう思っていただけ。なのに、なぜこんなにも息苦しいのだろう。そうだ、この感じは瑞葉の時にも感じたことがある疎外感に近いのかもれない。
瑞希を何よりかわいがる母に、仕事ばかりであまり家庭を省みない父。そして自分がすべてにおいて中心ではないと気が済まない双子の妹。
「おめでとう、ミア」
「お姉さま、ありがとうございます。わたしの婚約が先になってしまうなんて、なんだか申し訳ないですぅ」
勝ち誇ったように、そして小馬鹿にしたようにクスリと笑う。胃がキリキリとして、露骨に嫌な顔をしそうな自分を押し留める。
「いいのよ。あなたとグレンがこの侯爵家を支えてくれれば、私はいくらでもしようがあるから」
嫌味に嫌味で返す。これくらいならば、許されるだろう。グレンがミアとここを継いでくれれば、私は無理に結婚しなくても生きて行くことが出来る。自由気ままにとはいかなくても、もう誰も私に構わなくなるだろう。
そうなったら、どこか田舎でのんびり畑でもして生活をしてもいいし、何かこの世界で出来る仕事を探すのも悪くはない。そう、私は別に何ともない。何ともないはずだ。
「お父様、私はお邪魔のようですし、そろそろ退出してもよろしいでしょうか」
父は私に何か言いたげな顔をしていたが、それを読み取ることは出来ない。
「……そうだな」
「そうね、ソフィアはまだケガも万全ではないのだから、そうしなさい」
「ありがとうございます」
母の助け舟にほっとしながら、一礼してそそくさと息苦しい空間から逃げ出した。




