目覚め
うっすらと重い目蓋を開ける。生きている。そのことに驚きながら、私は体を一気に起きあがらせようとした。
「痛……たい」
トラックに轢かれたのだから、当たり前か。しかし私の体のどこにも、包帯は見当たらない。それどころか、目の前にある自分の手は驚くほど白い。いくら今まで帰宅部だとはいえ、こんなにも肌が白かったことはなかったはずだ。白魚のような手というのは、こういうものなのかと感心してみた。
「……いやいや」
何かおかしい。
今寝かされているのは、天蓋の付いた白いベッドだ。よく見ればそこには細やかな金の刺繍が贅沢に施されている。ここは明らかに、私が知っている病院というものではない。しかも誰かの家ということにしても、造りが日本のそれとは全く違う。辺りを見渡すと、さらりと髪が揺れ視界に留まった。サラサラとした艶のあるやや落ち着いたアイスブルーのストレートヘア。手に取れば、それが自分の髪なのだと改めて自覚する。髪の長さは腰の辺りまであるだろうか。白いリネンの上に広がる様は、まるで波打つ海のように思えた。
「何これ……。違う、誰、これ」
白く透けたような肌に、アイスブルーの髪。いやいやこれはもう、おかしいというレベルを超えてしまっている。
「鏡はどこ?」
どういうことなの。何が起きたの。考えれば考えるほど、頭の中はぐるぐると回りだす。
「いやだ、きもちわるい」
胸を押さえて前屈みになると、ふいにドアをノックする音が聞こえた。
「姉ーさま、もう起きましたかー?」
ドクンと心臓の音が早くなる。胸を押さえていた手が、思わずそのまま着ている服を握りしめた。
違う。この声は違う。瑞希ではない。そう思っているはずなのに、手指から一気に血の気が引いていくのが分かった。
「あ、やっぱり起きていたんだー、姉さま。それなら声をかけてくれればいいのに。あれ? ねぇ、もしかして思い出した?」
瑞希と同じくらいの年だろうか。ふわふわとしたストロベリーブロンドの髪を上だけ軽く結い上げ、白とピンクのシルクのようなドレスを身に着けた少女が部屋に入ってきた。歩くたびに裾のレースが揺れ、とても可憐で華奢だ。どこかのお姫様だと言われれば、そうだと思えてしまうくらいに。しかしその少女の声も姿形も全く違うというのに、小馬鹿にしたようなその笑みが、なぜか瑞希と被る。
「ノックの返事もなしに、勝手に部屋に入ってきてはいけないといつも言われているでしょう、ミア」
そう、私はこの少女を知っている。なぜ今このタイミングで思い出したのだろう。今の私は瑞葉ではなく、ソフィア・ブレイアムという名のブレイアム侯爵家の長女だ。そして、この少女は私の二つ下の妹である、ミア・ブレイアム。先ほどまで、確かに私は瑞葉だったはずなのに。
本当に? いや、違う。ソフィアとして生きた17年分の記憶は、確かに私の中にある。ただ記憶がバラバラになったパズルのように、いろんなとこに飛んでいてもう訳が分からない。だけど一つだけ確かなことがある。記憶が戻ったことを、この子に絶対に伝えてはいけない。そう自分の中のどこかが警告しているのだ。
「あれぇ? 今度こそ戻ったと思ったのになぁ……。それとも違うのかなぁ」
独り言とも取れる、小さな声で呟きながら小首を傾げた。
「何を分からないことを言っているの? それより、私はなんで部屋で寝かされていたの? 確か馬車でどこかに向かって……」
「えー。そこの記憶もないの、姉さま。頭打ったから、余計に……」
口元を抑えて、クスリと笑う。見る人から見れば、可憐な少女なのかもしれない。しかし、私には悪意しか読み取れない。
「ミア、あなた」
「やだぁ、そんな眉間にしわを寄せて、怖いお顔。そんなだから、夜会でも男の方が寄って来ないのですよ。んーとぁ、なんでしたっけ。そうそう、氷の姫君。姉さまはそんな風に呼ばれていましたよね。もっと愛想をふりまかないと、そんなんじゃ、貰い手なくなっちゃいますょ」
考えなくても私の二つ名など知っているはずなのに、本当にわざとらしい。私だってこの不名誉な名をずいぶん前に付けられたことは知っている。だけど、ミアのように愛想を振りまく方法なんて知らない。
そう過去においてだって、愛想よくするなんてことをしたことがないのだから仕方ないじゃない。
この世界では、貴族の女性として生まれた以上、良家に嫁ぐことが最も幸せなことだと言われている。最もどころではなく、貴族の女性は結婚できなければ行くあてなどないに等しい。
ゆっくりと、なんとなく状況が掴めてくる。私たちはあの日、トラックに轢かれて助からず、この世界に生まれ変わったのだ。前に読んだ本で、異界転生とかいわれていたものがあった。おそらく、そういったものの類だろう。ここがどこの世界なのか、何かの本の世界なのかは全く見当もつかないが、生まれ変わったということだけは確かなのだろう。そしてそれも、よりによって瑞希と共に。もし唯一の救いがあるとしたら、それは双子ではないということだけ。
それにしても、また姉妹だなんて……。運がないにもほどがある。
ため息を気づかれないように飲み込んだ。
「頭がすごく痛むから、横になりたいのだけど」
これは嘘ではない。記憶が戻って混乱しているせいか、それとも物理的になのか。先ほどから、頭や節々が痛くて仕方ないのだ。
「そーだと思いますよー。だって姉さまが乗っていた馬車が、転倒したんですもの。あちこち、痛いと思いますょ」
「馬車が転倒?」
「覚えてないんですかー? んー、やっぱりダメかぁ」
「どういう意味なの、ミア」
「何でもないですょ。こっちの話です」
そう言って、またニコリと笑う。
ソフィアとしての最後の記憶は、馬車に乗ったところまでだ。行き先は、おそらくいつもの王立図書館だったはず。昨日は雨が降ったわけでもないのに、侯爵家の馬車がそう簡単に転倒などするだろうか。しかし記憶が曖昧な今は、どれだけ考えても分からないだろう。
ミアに再び声をかけ退出を求めようとした時、ふいにドアをノックする音が聞こえてくる。
「はい、どうぞ」
「ソフィアお嬢様、失礼いたします。グレン様がお嬢様のお見舞いにといらしているのですが、いかがいたしましょう? こんな状況ですので、お断りをしようかと家令と話をしていたのですが」
1人の侍女が、申し訳なさそうな顔で入室してきた。彼女は私付きの、侍女ルカだ。おそらく、今家には私より上の身分の者がいないのだろう。本来ならば馬車ごと転倒したため、お見舞どころではないはず。しかし、相手がグレンならば簡単に断れはしない。私の幼馴染でもあるグレン・マクミランは同い年であり、公爵様の次男だ。昔から家族ぐるみの交流があり、今宰相補佐官として働いている。次期宰相の呼び声高く、ぜひ我が家の婿にと、よく両親が言っているのだ。そんな人をそのまま返したとなれば、誰かが怒られるのは目に見えている。
「グレン様が来て下さったのー。すぐに、お通ししなさいょ」
私の代わりにミアが答えると、侍女のルカが少し眉を顰めた。彼女は私の侍女であって、ミアの侍女ではない。しかも、ここは私の部屋なのに。
「幸い、目に見えるケガもないから、いいわ……お通しして」
ため息混じりに答えると、ルカは頭を下げて退出していった。
しばらくして、ルカがグレンを連れて入室してきた。やや深い緑がかった短い髪に、すらっとした背。仕事から抜け出してきたと思われる白とグレーを基調にした服に、眼鏡をかけている。しかしその手にはあまり似つかわしくない、2つの花束があった。
「2人とも、無事で本当によかったよ」
「グレン様ー。ミアのことも、心配してくださったのですかー?」
グレンの顔を見るなり、すぐにミアがすり寄っていく。そして小首を傾げながら、目をウルウルさせている姿は、もはや流石としか言いようがない。
「もちろんだよ」
「わざわざ、お見舞いのお花まで持ってきて下さるなんて、ミアすごくうれしいですぅ」
「侯爵家の馬車の車輪が壊れて転倒し、中の令嬢が屋敷に運ばれたと聞いてね。居ても立っても居られなくなって、押しかけてしまったんだよ。でも、2人とも無事で本当に何よりだ」
「グレン様って、本当にお優しいんですねー」
「ソフィアも、大丈夫かい? 大事なものを亡くしてしまったかと思って抜け出してきたんだ」
ふと思う。グレンにとって大事なものとは、何なのだろう。元々、私とグレンは幼馴染で、同じ王立の学園にも通っていた。それでも私たちの関係はあくまで幼馴染止まりであり、よく言っても男友達レベルでしかないはず。昔から考え方とか、勉強方法などとてもよく似ていて、一緒にいる分にはとても楽な存在ではある。そういう意味での、大切な者枠ということだろう。
一瞬、ドキッとしたこの気分を返して欲しい。
「わざわざ仕事を抜けてまで来てくれて、ありがとう。転倒した馬車に乗っていたらしいんだけど、どうも記憶が曖昧なの」
「頭を打ったみたいだと、家令からも聞いたよ。ゆっくり休んでくれ。今度、大事な話があるから、次の週にでも公爵様がいる時に話に来るよ」
「まぁ。それはわたしへの話ってことですか、グレン様」
「二人にだよ」
「えー、2人ともなんですか。でも、ミア、楽しみにしておきますね。お姉さま、グレン様をホールまでお送りしていきますね」
「ええそうね、お願いするわ、ミア」
グレンは私に向かって軽く手を上げると、ミアを引き連れて部屋から出て行った。正直、考えなければいけないことは山積みだ。しかし、ほっとして横になると意識はそのままベッドへ吸い寄せられていった。